忘れたコーヒー代

あれは、雷さんが大阪の新歌舞伎座へ二度目に出たときだったと思う。(注:65年11月秋のスター公演)有吉佐和子の「江口の里」という短編をもとにして、往年のアメリカ映画の名作「我が道を往く」のような、牧師を主人公にして、まあ、ラストは今日的に暴力団か何かアクションの対決があるとしても、新しい素材の面白い現代劇が出来ないかと、所長の発案で、雷さんも乗り気になって、とりあえずスチールを撮ることになった。

芝居のはねたあと、新歌舞伎座のロビーを借りて、京都の某教会から借用した白いハイカラーに黒い服という牧師スタイルになってもらい、ぶ厚い聖書を持ったりして、まず一人立ちを二三ポーズを撮った。まだストーリーなど全然出来ていなかったのだが、少しドラマがかったものも撮ろうということになり、その日たまたま楽屋にみえていた奥さんといっしょに、上のお嬢さんの尚江ちゃんが姿をみせていたので、頼みこんで特別出演をしてもらうことになった。

ところが尚江ちゃんは、カメラ嫌いなのか、恥ずかしがってわれわれのところへ来てくれないのである。雷さんが「尚江ちゃん」と呼んでも、警戒して、遠くの方から「え、なあに?」とか「いや」とかいって、せっかくの計画もだめかなと思ったのだが、雷さんがパパぶりを発揮して、尚江ちゃんと“お店やさんごっこ”を始めだした。

「もしもし、尚江ちゃんですか、お野菜を持ってきてください」と雷さんが電話を掛けると、「はいはい」といって尚江ちゃんは、両手いっぱいに何か持つような格好をして雷さんのところへ駆け寄ってきて渡すのである。それをスチールマンが、すばやく狙ってシャッターを押す。「すいません、もう一度お願いします」

「もしもし、尚江ちゃんですか、おいしいパンを持ってきてください」−うれしそうに駆け寄るお嬢さんを抱き上げる雷さんの笑顔は、われわれが会社でみる笑顔とは、また違ったもので、当然のこととはいえ、やさしい懐しい父親の笑顔であった。幼い尚江ちゃんも、きっと覚えていてくれることだろうと思う。

私は俳優だが、家族には関係ないからといって、家族の写真は、ほとんど撮らせなかった雷さんとしては、異例の協力で、撮影が終わったのは十一時も近かったであろうか。

「子供をだましてまで撮らせたんやから、ええスチール出来とるやろうな」と、照れくさそうに笑いながら念を押されたのだが、しかし、この企画も理由のはっきりしないまま、日の目をみなかった一つである。