仲良しライバル錦ちゃんを語る

一日交替でつとめた舞台

 こんど、錦之助君が『風雲児・織田信長』(1959年10月25日公開、上映時間 95分)をやるについて、何か私に書けという近代映画のご注文なので、それに関係ありそうな話をとりまとめて述べてみることにします。

 実は、私は今年の春、大仏次郎さんの原作で『若き日の信長』(森一生先生の監督、金田一敦子さん、青山京子さん、北原義郎さん、高松英郎さん、市川染五郎さん共演でしたが・・・)をやったばかりですが、同じ頃、錦之助君も“信長”をやるというお話でした。そのため、新聞には二人の競作ということでいろいろ書きたてられ、とくに“信長”を語る対談までやらされたことがありました。ところが何かの都合で、錦之助君の信長が製作延期になり、ついに競演は実現しなかったわけです。私の方は予定通り二月末から撮影を始め、四月に封切られましたが、おかげさまでまずまずの評判でした。

 錦之助君の“信長”は、実はこれが最初ではなく、映画入りして二、三十本目のころ、『紅顔の若武者・織田信長』の題名で、相手役の濃姫もたしか高千穂ひづるさんで製作されたのを憶えています。これは錦之助君にとっては、映画では初めての汚れ役であり、しかも大変熱演で、まさに画期的な作品だったと記憶しています。錦之助君の作品の中には、すでに同じ題材を何度も映画化したというものが、何本か含まれていますが、“信長”も、彼には二度目のおつとめというわけです。

 今度の“信長”に限らず、私と錦之助君は不思議な縁で、歌舞伎のころから、同じ様な役を、二人で共演してきたことがしばしばあります。たとえば「三千歳と直侍」に出てくる“千代鶴”と“千代春”という二人のお女郎を一緒にやったり、また、「十六夜清心」に出てくる求女という寺小姓の役を、私と一日交替でつとめたこともあります。錦之助君が休みの時は僕が仕事。僕が遊んでいる時は錦之助君が、遊んでいる僕を横目でうらやましそうにながめながら舞台をふんでいるというような、悲喜劇(?)もあったわけなのです。

 こうして、十代のころから因縁浅からぬ二人は、ほぼ時を同じくして歌舞伎の舞台から、会社こそちがえ、同じ映画の世界に身を投じました。そして映画に入ってからも、『忠臣蔵』における浅野匠頭や、『弁天小僧』、さらに、こんどの“織田信長”のように、同じ人物を二人でそれぞれ演じてきたようです。

 私と錦之助君は非常に似通ったコースを辿ってきた人間だけに、二人の間には類似点がたくさんある反面、また大へん対照的なところもあるようです。いまではその類似と対照が、全く相半ばしているのではないかと思えます。

 錦之助君が梨園の名門、中村時蔵丈を父に、私は市川寿海を父にもつといった具合で、ともに父親が歌舞伎の名優であったということは、二人に共通の運命を辿らせる原因ともなったわけですが、ただ異なるところは、彼が十人兄弟の四男として生れ、大家族のもとに育ったのに反して、私は一人の兄弟もいないというところでしょう。

 少々かたくなってしまい、錦之助ファンなら誰でも御承知の身許調べみたいになってしまいましたので、チョット方向をかえましょう。そうです、スポーツの方の話でもしましょうか・・・。