武智歌舞伎から銀幕へ!若さと情熱で栄光の道を進む雷蔵には、人知れぬ苦難があった!

 

初舞台

 雷蔵は九団次の実子竹内嘉男として、夫婦の温い慈愛の手にはぐくまれ、すくすくと成長していった。

 昭和九年四歳の時、関西風水害で、九団次の家も被害をうけたので、京都から大阪に移った。小学校は天王寺区の桃ケ丘小学校で成績も非常によく、級長にも再三成った。ついで、天王寺中学に入学したが、ここでも成績はいつも一番か二番であった。たまたまその三年生の冬(昭和二十一年。十六歳の年の十一月)、すすめられるままに大阪歌舞伎座公演の「中山七里」に茶屋娘お花の役で初めて舞台をふんだのが、その後の彼の運命をハッキリと決定することとなった。

 それまでの雷蔵は、九団次という父を持ちながら、歌舞伎俳優になろうなどとは少しも考えたこともなかった。歌舞伎は好きで、見る事はよく見たが、自分はゆくゆくは医者か、平凡な銀行員にでもなるつもりであったし、又父の九団次も、別段雷蔵に、役者になれとすすめることもなかった。だから、ふとした縁から、断り切れず、三代目市川莚蔵を名乗って舞台をふむようになったが、歌舞伎界では十六歳の初舞台などは、むしろ異例で、本当はもっと小さい五ツ六ツの時分から子役として初舞台をふんで修業を積むのである。

 とにかく此の「中山七里」を機に、雷蔵は旧制中学を中退することとなり、歌舞伎役者としての新しい世界へ第一歩をふみ出すこととなった。

 しかし、正直に云って、それから映画界へ転ずる迄の足かけ八年程の間、雷蔵が、歌舞伎界から得たものは殆ど何もなかった。役らしい役にもつけて貰えなかったし、若しあのまま満足して歌舞伎に残っていたとしたら、自分というものはどうなっていただろうと雷蔵は思う。唯一つ、例の。世にいわゆる「武智歌舞伎」の厳しい訓練を除いては・・・。

 武智歌舞伎と云うのは、戦後大阪で歌舞伎の演出に乗出した武智鉄二氏のこしらえた歌舞伎という意味である。

 武智氏は、現在では単なる様式的なものにとどまってしまっている歌舞伎を、今日の演劇に通ずるものにしようと努力した人であった。そして坂東鶴之助、中村扇雀、市川雷蔵、嵐鯉昇(北上弥太郎)、実川延二郎等、若手の者達を集め、文楽座等で「関西実験劇場」と名付ける歌舞伎の実験的公演を数回にわたって行っている。

 二十五年五月、文楽座の関西実験劇場第二回公演で、雷蔵は「妹背山道行」の求女の役を演じ非常な好評を拍した。これは歌舞伎では「道行恋苧環」として知られているものであるが、満開の桜の花を背景に、苧環を手に踊る雷蔵は、京舞で知られた井上八千代の名振付と相まって満場の観客を魅了した。

 父の九団次はこうした雷蔵を見るにつけ、何とかして雷蔵を一人前の立派な役者に仕立てたいと思った。しかし歌舞伎の世界には昔ながら派閥というものがある。いくら立派な役者になろうと思っても、門閥がなければどうにもならない。九団次は幼い時から我子同様に育てて来た雷蔵の将来を思い、夫婦相談して、若し名門の役者で雷蔵を貰って呉れる人があれば、可愛い雷蔵だが思い切って手離そうと決心した。この決心をする迄に、九団次夫婦は幾夜眠られぬ夜を過したことであろう。

 関西歌舞伎の大立者である市川寿海には子供がない。

 「もしも寿海さんが嘉男を貰って下すったら・・・」