武智歌舞伎から銀幕へ!若さと情熱で栄光の道を進む雷蔵には、人知れぬ苦難があった!

 

雷蔵襲名

 二十五年の暮、名古屋の御園座で関西歌舞伎の公演があったが、その時雷蔵達のつくし会も、何とかして自分達の公演の機会を持とうと、御園座の専務の長谷川氏の好意で、夜の部の興行のはねた九時半から一時間半を、特につくし会の為に舞台を提供して貰う事にした。演しものは岡本綺堂原作の「修禅寺物語」で、坂東蓑助が指導に当り、頼家役を古くから当り役にしているちなみから、寿海にその審査役を頼んだが、頼家に扮した雷蔵の熱のある演技は全く寿海を感嘆させ、採点も最高の八十点を貰った。その上危ぶまれていた興行の方も大成功で、世話をした長谷川専務も非常な喜び方で、「これからは毎年名古屋へ来た時は演って貰いたい」と云われた位だった。

 九団次が寿海夫婦のもとを訪れたのは、こうしたいきさつからだった。

 先にも云ったように歌舞伎界は門閥を尊ぶ。誰の思いも同じである。星の降るほど縁談のある寿海だったが、役者稼業の苦しさを身を以って体験して来た寿海は、役者は自分一代で充分、と考えていただけに、今迄養子の話にも耳を傾けた事もなかった。

 しかし、そう思いながら、寿海の頭の中からは、あの日の雷蔵の凛々しい頼家姿がいつ迄も去らなかった。磨けば光る。惜しい珠だ。寿海はあきらめるにあきらめきれなかった。

 このようにして、千土地興行取締役白井信太郎氏の推薦などもあり、同氏の仲人のもとに、めでたく寿海との養子縁組が決定したのは、翌二十六年の四月末、一と月越えて、六月に八代目市川雷蔵を襲名し、大阪歌舞伎座で「白浪五人男」の赤星十三郎で襲名披露を行なった。

 「やはり寿海さんに貰ってもらってよかった」

 二十一年の永い間、我子として育ててきた雷蔵。今は人の子となった雷蔵の新しい門出姿を眺めやる九団次夫婦の眼からは、とめどなく熱い涙があふれ落ちるのだった。

 雷蔵の本名は竹内嘉男だが、寿海の養子になったので、姓が変って太田嘉男となった。ところが今度は名前の画数が悪いと云うことになり、改めて太田吉哉と名乗ることになった。

 ここで少し話が飛ぶ。

 二十九年の夏のはじめ。大映京都撮影所の酒井所長は、雷蔵から急に、

 「大映の映画に出演してもいい」

 という連絡を受けて驚いた。

 もっとも、その一年程前、酒井所長は「サンデー毎日」の楽しい我子というグラビア企画に寿海親子の写真が出た事がキッカケとなって、さる人の仲立ちで、雷蔵と一夕膝をまじえた事がある。勿論酒井所長としては、錦之助、千代之介等最近他社の新しい時代劇スターの台頭に応えて大映としても新しい時代劇スターを獲得しようとしての下心があっての事だが、その時はまだ表面は、それとなく色んな話が取交された程度にしか過ぎなかった。しかし、ともかく、雷蔵に一番早く映画入りの話を持ちかけたのが大映であった。

 何か映画に出ない事が時代に取残されるような気もし、勉強にもなる事だしと、初めは賛成でなかった父の寿海をもときふせて、一番最初に話のあった大映に出演する事に決心したのであった、これが彼の映画界に入るようになったいきさつである。松竹に居ながら大映と契約するとはどうか、という一モメもあったらしいが、それも話がつき、舞台は松竹、映画は大映という割切り方で、三本を契約した。大映では直ちに企画を選定し、第一回作品は『花の白虎隊』、つづいて『幽霊大名』、天然色映画の『千姫』と矢継早やに出演した。

昭和二十五年の九月に、大阪歌舞伎座で 二十七年歌舞伎の「元禄忠臣蔵」で
「夕涼み舟」を演じたときのもの 大石主税に扮したときのもの