武智歌舞伎から銀幕へ!若さと情熱で栄光の道を進む雷蔵には、人知れぬ苦難があった!

 

親切な溝口先生

 流石舞台で鍛えただけに、何をやっても危なげがない。マスクもなかなかいい。素顔の雷蔵を知っている人なら、誰でも驚く事だが、眼鏡をかけた普段服の雷蔵は、全く平凡なサラリーマンタイプとしか見えない青年だ。だから京都の盛り場の京極通りを歩いたって誰一人ふり向く者もない。俗にいうキャメラフェイスがいいというのだろう、この平凡な青年がメーキャップをすると、見違えるばかりのスッキリとした若殿に化けてしまう。

 「よし、これならいける」

 と絶対惚れこんだ大映では、翌年の正月から、改めて雷蔵と三年間の出演契約を結び、益々積極的に売出す事になった。

 雷蔵にとって映画界は、汲めども尽きぬ魅力の泉だった。狭い歌舞伎の舞台から、一度に何百万の大衆を対象とする大きな舞台に羽ばたいたのだ。幸運児だった事といえる。その幸運がチョッピリ慢心の鼻を高くしたのかも知れない。

 「雷蔵は生意気な奴だ」

 と云うような評判が、誰からともなくジャーナリスト達の間に聞かれるようになった。

 大体雷蔵はザックバランにものを云う方である。気どらないで何でもハッキリ云ってしまう。性格がわかってしまえば何でもないんだが、初めての人は随分取っつきが悪く、愛想がなくてそれだけでも尊大な奴だなと誤解される傾きが多い。

 聡明な雷蔵のことだから直ぐ自分でも気がついたのか、大作『新・平家物語』にかかる頃には、そんな噂は、とっくにどこかへ消し飛んでしまっていたが、そういう誤解をされかねぬだけあって、見かけの華奢なわりに、気持も鷹揚で、人から少し位ズケズケ云われても応えない。大映で三本をあげてから、次に新しく契約する間に、雷蔵は一本京都映画で、美空ひばりと共演の『お夏清十郎』を撮っているが、冬島泰三監督は口の悪いので有名な人。ところが雷蔵はガミガミ叱られても「はア」「はア」と平気な顔。マネジャーの森本氏が、

 「うちの坊ちゃんはホンマ大したもんですワ」

 と呆れていたことがある。

 そんな具合だから、あのうるさい溝口監督の『新・平家物語』の撮影中でも、叱られたり、何十回もテストを繰返されるような事もザラだった。却って

 「溝口監督は非常にうるさい監督だと聞いていましたが、そうではなくて、非常に親切に指導して下さる方だと思いました」

総天然色の大作『千姫』では京マチ子さんの千姫の夫豊臣頼秀に扮して好演

 

 と云うような全く逆の感想も生れて来、溝口監督も、雷蔵の芸熱心にはホトホト感心させられたことがあった。

 『新・平家物語』で溝口監督の指導をうけるようになって、雷蔵が真っ先に感じたのは、今迄の自分の演技に対する考え方が全然間違っていた云うことであった。

 例えば、セリフ一つ云うにしても、それは感情の表現であり、どんな短い言葉にでも、それなりのテーマがある筈である。それが何かを考えて喋らねばならない、と溝口監督は教える。雷蔵は『新・平家』の撮影に出ていると、こうして毎日、何か一つは溝口監督の言葉から得るところがあった。そしてそれを忘れずに、一つ一つ自分の胸にたたみこんだ。

 戦後最大と云われる大がかりな『新・平家』の宣伝の波に乗せられて、次回作『いろは囃子』の多忙な撮影に追われながらも、雷蔵は日本中を飛び歩いたが、その間も夢に忘れられないのは、病床にある養父の九団次のことであった。九団次はかなり以前から悪性の病気に悩まされ、ずっと京都府立病院に入院していたのであった。養母のはなはそれより前、昭和二十七年の一月に他界していたし、今は雷蔵にとっては何ものにもかえがたい父であった。が

 「どうかお父さん、死なないで下さい」

 と雷蔵の血を吐くような祈りも空しく、九団次は十一月二十六日の危篤の知らせで撮影所から扮装のままで駈けつけた雷蔵の手を握りながら、

 「しっかりやるんだよ、立派な役者になるんだよ」

 のびゆく我子に満足の涙を浮べ、寿海に感謝のまなざしを送り乍ら亡くなっていった。雷蔵は思わず男泣きに泣いた。

 自分の今迄の、あらゆる情熱を注ぎこんだ映画『新・平家物語』−それを誰よりも一番先に見て貰いたかったその人は、遂にそれを見ることなくあの世に旅立ってしまったのだ。雷蔵は涙の眸を雄々しくあげて誓うのだった。

 「見ていて下さい、お父さん。僕は今に、もっともっと立派な演技者になりますよ。誰にも負けない−誰にも負けない−」

(近代映画56年2月号より)