愛すること、生きること

 私は、いま、『薄桜記』(五味康祐原作・伊藤大輔脚色・森一生監督)という映画の撮影入って、主人公の丹下典膳というサムライの役を演じていますが−たまたま公儀御用で大阪へ出張した留守中に、愛する妻千春が数人の不良武士たちに凌辱され、しかも彼等によって不義の噂を立てられたことから、悲劇の主人公になってゆかねばならなかったこのサムライの愛と苦しみの生活には、そのまま現代に通ずるものがあるのを感じて、このところ、いったい愛とはなにか−という問題について大いに考えさせられております。

 私たち映画俳優は、カメラの前ではその映画の中の人物になりきらねばなりません。ところが、映画や芝居の大部分は男女の愛情を扱っているので、しょっちゅう、愛したり愛されたり(嫌ったり、嫌われたりする場合もむろんありますが)していることになります。そのため、愛情の問題には不感症になっているように考えられがちですが、けっしてそのようなことはありません。なぜなら、映画は私たち映画俳優にとっては生きるための職業であって、現実の人生そのものではないからです。

 ですから、私が、いま自分が演じている『薄桜記』の主人公にいたく心を動かされているのも、けっして、彼と自分を混同しているからではなく、彼になりきることによって、現代に生きる私たちにも通ずる愛情の問題について、多々考えられることがあるからなのです。

 もちろん、時代劇に登場する人物の感情が現代に通じているのはなにも彼の場合に限ったことではありません。