どうしたわけか、日本の映画界では時代劇の俳優と現代劇の俳優がハッキリと区別されていて、三船敏郎さんとか鶴田浩二さんとか私とかのようにその両方へ出演する俳優(とりわけ男優)はあまりないようですが、時代劇と現代物に出演してみて一番感ずることは、結局、時代はかわっていても人間の根本感情はあまりかわってはいないのじゃないかということです。チョンマゲを結ったり、「さようでござる」といったセリフを使ったりするので、一見、別物のように錯覚されますが、いざ、自分がその両方の登場人物を演じてみると、その人物の生活感情にさして変りはないということがよくわかるのです。

 そして、その意味では『薄桜記』の主人公丹下典膳の生き方が現代に通じているのも、別に不思議はないわけなのです。それが不可抗力なものにせよ、愛する妻が他の男と結ばれたというギリギリのケースに追いこまれた彼の生き方には、愛の在り方の混乱した現代に生きる私たちに強く訴えてくるものがあると思うのです。

 たとえば、いまの若い男女は、ちょっと愛情の問題でゆきづまると、いとも簡単に相手を殺したり、自殺したり、心中したりしますが、典膳は、不義密通の男女は重ねて四つに斬られる時代に生きていながら、けっして妻を殺すなどということはしない。そればかりか、なんとか妻を生かし、すべてを円満に治めようと、敢えて、武士にとっては絶対大切な右腕を妻の兄に切らせるというほどの涙ぐましい努力をするのです。

 なぜ、彼がそんなことをするかというと、心から妻を愛しているからです。また、妻が自分を愛してくれていることも知っていて、愛し愛される者にとっては、まず、なによりも、生きるということが最大のしあわせであると信じているからなのです。結局、最後には二人ともはかなく死んでゆくが、それは死のうと思って死ぬのではないのです。

 それを、近ごろでは、前に述べたようにやたら軽々しく死ぬ人が多すぎるようです。少し苦しいと、すぐに死に解決を求める、−つまり、逃げるということです。−そんな弱い人間に、私はなりたくないのです。生きるということは、難しくて苦しいことだけれども、万難を排して生きてゆく、−生きるということは単に呼吸をしているというだけのもでなく、生きて、一生けんめいに仕事をして、その仕事を通して社会に役立つ、社会と結びつくよう努力してゆきたいと思っています。それが、生きる、ということの意味ではないでしょうか。世の中には自己だけを考えて、社会との結びつきを考えない人が多いけれど、私は、やはり広く社会につながる生き方をしたいと思っているのです。

 それと同時に思慮分別のある愛について、私たちはもう一度、よく考え直してみるべきところへきているのではないかと思っています。