最後の侍・市川雷蔵

 昭和36年以後、長谷川一夫が大映時代劇の第一線からほとんど身を引いてしまうという現象は、決して彼が年をとりすぎてしまったというだけの理由ではない。その頃、34年の『薄桜記』(森一生)を契機として、35年『不知火検校』(森一生)、『疵千両』(田中徳三)、36年『沓掛時次郎』(池広一夫)、37年『座頭市物語』『斬る』(三隅研次)と、大映時代劇が急速に変化していった時期であり、彼の体質とは全く違った方向へと向かおうとしていたからである。

 確かに『疵千両』、37年『青葉城の鬼』(三隅研次)など、彼としてはこれまでにないシリアスで硬質な役柄を演じてはいるが、すでに巨大なイメージと化した銭形平次の残像と、白く中年肥りした体、そしてステレオタイプ的にパターン化した演技では、いかに力んでみても、来るべき時代劇のスターとして転換することは不可能であった。こうした時期に現われるべくして現われたスターが市川雷蔵と勝新太郎である。

 まず、市川雷蔵の経過をたどってみよう。

 「昭和二十九年(1954)から昭和四十四年(1969)までの16年、市川雷蔵が出演した作品は、百五十を越す。外国の大スターであったら、天寿を全うしたとしても、生涯にこれだけの作品数を残すのは不可能であろう。最近、エコノミック・アニマル、ポリティカル・アニマルなどと、日本のあだ名も手がこんできた。雷蔵の生涯の短さと作品の数を比較すると、映画アニマルというあだ名も、あながち不当とも思えなくなる」(辻久一「侍・市川雷蔵その人と芸」)

 三十七歳の若さでこの世を去った市川雷蔵は、日本映画史の中で特筆されるべき人物であろう。これだけ人気を博し、これだけ膨大な作品に出演し、しかも三十七歳という驚くべき若さで死んでしまったという点、世界を見渡したところで、まず匹敵しうるスターは見当らない。今、ジェラール・フィリップ、モンゴメリー・クリフトと思いつくスターをあげてみても作品の数からいえば遠くおよばないのである。

 さて、過去の時代劇の役者のほとんどがそうであったように、市川雷蔵も歌舞伎の世界から映画界へ入ってきたスターである。昭和二十九年、その頃、歌舞伎役者の映画進出は一種の流行のようになっていた。人気役者坂東鶴之助、中村扇雀、大谷友右衛門らはすでに数本の作品に出演しており、続いて『雪之丞変化』で東千代之介が、『笛吹童子』で中村錦之助がスクリーンに登場してくる。こうして同じ年、『花の白虎隊』(田坂勝彦)で、長唄の世界から転身した勝新太郎とろもに、市川雷蔵がデビューしたのである。

 当時、東映がお子様専門の波瀾万丈活劇時代劇を中心に置いていたのに対して、大映は主に女性客もふくめた大人向けの軽いサラッとした時代劇を作っていた。素材は股旅やくざから町人物、侍物と千差万別だが、そのほとんどは軽妙なコメディか、淡いメロドラマといった、サラリーマン物の時代劇版のような作品であった。文学でいえば、山手樹一郎、源氏鶏太的ともいえそうな、可もなく不可もない作品が多かった。こうした大映時代劇の傾向は、端正なマスクと細く華奢な体、知的さと明朗さを適当に兼ねそなえた役者市川雷蔵には、まさにピッタリであった。

 出演第六作に当る主演作、昭和三十年の『次男坊鴉』(弘津三男)は、そういう意味で彼のはまり役であった。旗本の次男坊が勘当されてやくざとなる。つまり武士崩れの渡世人である。気ままな生活に満足していた或る日、兄の急死にあい跡取りとして実家に帰らなければならなくなる。実家に戻ってはみたものの、昔の生活が忘れられない。ところが、渡世人時代、恩をうけた親分が殺されたと知るや、もう一度長脇差を手にし、やくざに戻って仇討ちをする。戦前松竹下加茂で作られた『お静礼三郎』の再映画化である。雪の降る中を三度笠に道中合羽で行く雷蔵の美しい姿、ガラスのような物腰、育ちの良さを感じさせる清潔なムード、これまでにない美しい股旅映画であった。どこへ飛ぶのか次男坊鴉 肩にみぞれの降るなかを 白根一男の主題歌もか細く物悲しく、ピッタリと映画にマッチしていた。