雷蔵は生きている

雷蔵は不思議な役者である。時を経るにつれて、私たちの前にその存在の輝きを増して現れ続けている。

二十年前、三十年前の映画公開当時、単に娯楽として楽しんでいた雷蔵作品が、ある日娯楽とか芸術とか、そのような区別にとらわれない、真に豊で自由な作品として存在してくるのだ。それは見る者の心をあらゆる枷から解き放し、潤いを与えてくれる。様々な雷蔵作品と何度そのような新たな至福の出逢いを繰り返してきたことだろう。

雷蔵がそこに存在するだけで、画面は匂やかに息づき、現実ではなく真実が、いや人間の思惑をはるかに超えた見えないものが見えてくる、薫ってくるような世界が鮮やかに現出する。それは雷蔵の魅力が役者の肉体を超えたところに存在するからなのだろうか。

趣味・嗜好が全く異なる人でも、こと雷蔵が好きという一点だけは共有できたりするから不思議な気がする。そして同じ“狂四郎”を見ながら、彼女はそこに少年の純粋さを見、彼は果てしない虚無を見る。雷蔵の魅力の一つは、そのように多元的なイメージをかきたてるところにある。見る者が、それぞれの思いの中で“狂四郎”を生きることができるのだ。まるで雷蔵自身が一つの透明な水晶体となって見る者の心を映し出しているかのように。

雷蔵はその154本もの作品の中で様々な人間を生きてきた。「忠直卿行状記」では真実を求めて狂う薄倖の貴公子を、「影を斬る」では現代感覚に富んだ軽妙洒脱な若侍を、「炎上」では孤独な青年僧を、「弁天小僧」では男と女がその中に潜む芳しい少年を、「ひとり狼」ではプロに徹する非情な殺し屋を・・・・。

その姿は見る者の心を浄化し、新たなる“詩”を秘めやかに語ってくれる。雷蔵は「現在(いま)」という「永遠」に生きているのだ。(毎日グラフ6/14/92号より)