後援会の役員の方におききすると、市川雷蔵さんのファンの方、後援会員の方には、ほかに比べて、お年を召した“ごひいき”がかなり多い、ということである。それをきいたとたん、「ああ、それなら安心ですね」と私は言った。なにも、年若いファンにだけちやほやされるスタアは信用がおけないと、とか、若いファンのお熱などは不安定なものだ、とかいうのではない。私が安心したのは、お年を召したファンが多いときいて、成程、雷蔵さんの魅力というものは、私などが心配するまでもなく、受取られるべき人には正確に受取られているのだな、と考えたからである。

 ファン雑誌などを読むと、「雷様」の肩書には必ず「貴公子」という文句がついている。事実たいした気品なのだから、「貴公子」という形容にウソはない。というより、今日本映画で貴公子ということばにふさわしい品格を備えているスタアは、雷蔵さんだけといってもいいだろう。しかもこの貴公子は、注文のつけようのない美しい優男のくせに、演技にはいつも一種ムキになった熱っぽさ(緊張)があって、それが一つの逞しさになっている。これらの特長は、純粋で理想を追う少女たちにとっては、まさに殺人薬のようなものである。若いファンが夢中になるのは、よせというほうが無理なくらい当然のことなのだがしかし私は雷蔵さんという人には、これらの誰もがいう特長以外に、もっとすばらしいものがあるのではないか、とかねがね思っていたのである。

 それは「いき(粋)」ということである。いき、というのは普通、あかぬけのした色っぽさ、というほどの意味に使われているが、本当の「いき」には、まじり気のない緊張と、一種の冷たい憂いが必要である。雷蔵さんには、たしかにそれがあるのだ。そしてこの「いき」という感覚は、これこそ年齢をを加えたんでないと摑みにくいものなである。残念なことに今の時代劇は、多く子供向きに作られるため、せっかくこの「いき」の感覚をもったスタアがいても、その特長がころされたり忘れられたりする例がじつにしばしばある。雷蔵さんファンにお年を召した方が多いと知って安心したのは、雷蔵さんのこの「いき」を知る同志がやはり大勢あったのだな、という私のよろこびなのであった。

 最近、『忠臣蔵』『旅は気まぐれ風まかせ』『命を賭ける男』と見て来て、私はお世辞でなく、雷蔵さんが着々と自分を落着かせて来られているのに感心した。特に『命を賭ける男』の水野十郎左衛門は、脚本の人物設定にかなり無理があるので、ずいぶん演りにくかったのではないかと思うが、その難役を雷蔵さんは、じつにふくよかな落着きと、ひたむきな熱っぽさで、みごと納得できる人間に仕上げていたと思う。一頃見えた(はっきりいうが)気の弱い迷いみたいなものが、或る程度吹っ切れたのではないか、とさえ考えたのである。

 が私は、更にそれ以上いいたいのが『旅は気まぐれ風まかせ』における雷蔵さんの「いき」とユーモアの感覚である。まだセリフの軽みなどに幾分不安はあるが、雷蔵さんはこの方向こそ、今以上につきつめていただきたい、と思ったものだ。ここにも、あなたのひそかなファンが一人いるこを知って、いよいよ御自愛くだされば幸いです。

(筆者は映画批評家)

(よ志哉5号より)