スタアになる運命

自ら拓いた栄光への道

スタア市川雷蔵は、いわば、デビューの第一歩から、立役者の栄光を約束されたような俳優でありました。寿海さんの養子となって、しかもあえて映画の道をえらんだ−その瞬間から、大映京都時代劇を背負って立つ義務と権利がこの人にはかかってしまった。大映時代劇は、今日、勝新太郎というようなみごとな演技者や、小林勝彦、本郷功次郎のような注目すべき若手を擁しているがともかく、長谷川一夫のあの位置と貫禄を継ぐべき存在は、この数年、雷蔵を除いて、ほかには考えられなかったのです。

このような位置に、いやおうなく就かせられたスタアは、日本の場合、それこそ、いったい本当の自分はどこにいるのだ、といいたい、酷使の奔流におし流されてしまうのが、つねです。人間のタイプだけは、イイ気なほど千変一律だが、演ずる役の扮装は、百面相のように変化させられて行く、といった宿命を、この人たちは絶えず受けいれていなければならない。それに抵抗して、その変化の中から自分を発見し確保していけるスタアは、じつは私たちの想像以上に少いといっていいのです。

市川雷蔵さんにも、当然、この運命は襲ってきた。品もあり、端正で清涼な、そしていかにも律義なまじめさをもった彼の雰囲気は、それだけに、いわゆる「二枚目」として、申し分のない資格をそなえています。みずから、宿命に押し流されることを覚悟のうえなら、この人は、雷様とか貴公子とか呼ばれて、いかようにも、のっぺりした二枚目にとどまったまま、ちゃらちゃらとした人気に浮かれつづけていることも、できたはずであった。

しかし雷蔵はその危険な栄光を、あえてみずから食いとめたマレなスタアの一人であったといえます。いや食いとめただけではない。彼は年十本をこえるさまざまな種類の主演ノルマの中で、ぐんぐんと積極的に自分をひろげはじめていったのです。彼自身の土性骨。そして、すぐれた監督たちの努力。この二つの協力が今日、雷蔵を、単なる二枚目とはどうしてもよべない、ひとりの演技者に仕立てあげた。