現代劇への自信

両刀使いということ

雷蔵さんが、そのように、自分で自分を客観的にみつめられるくらい、ゆとりのある演技もできるようになったについては、特に二つの大きな跳躍台が必要でした。

「炎上」と「ぼんち」。市川崑監督による、彼のたった二本の現代劇がそれです。

世間には、時代劇を本領とする雷蔵が、現代劇でその“代表的な演技”を見せるとは、いたって皮肉だ、というようなことを述べる人もいます。確かに、この二本を、彼の跳躍台と呼ぶのは、皮肉なことだ。しかし、考えてみればいったい時代劇と現代劇に、「人間のドラマ」としての本質的なちがいが、どれだけあるというのでしょうか。むしろ私たちはここで、あれだけ固そうな時代劇というカラを、みごと現代劇というチャンスで破った雷蔵のするどさ、−その雷蔵から、思いもかけぬ新しい人間像をとり出した市川監督の見透しのすばらしさ、この二つに、謙虚な敬意を捧げることこそ、肝要なのではないでしょうか。

この二本が、市川雷蔵の演技歴の幅を占めている重要さは、どんなに声を大きくしても、言い足りないほどです。「炎上」は、それまで(いや、そののちも)市川雷蔵という役者の本質の一つと考えられていた“かげのない清涼な明るさ”を、まっこうから否定することによって、もうひとり、別の市川雷蔵を彼の内部から掘り出した作品であった。そこに現れたのは、暗い、心につめたいわだかまりのカゲをもった、いってみれば孤独と劣等感と怒りのかたまりのような現代人の像です。それは、雷蔵さんだけではない、他のどんな日本の俳優も、これまで監督たちから掘り出してもらえなかった現代人の一面だった、といっていいものです。

このような現代性を掘り出してもらったことが、以後、ただちに、雷蔵さんの役柄まで変えて行った、とはえいません。むしろ雷蔵さんの役柄は、その後も、硬軟はともあれ、また、カゲのない清潔なスタアへ戻って行った。重要なのは、この体験が、彼に何よりも、彼自身の人間の幅をしらせた、ということです。演れば、どんな人間でもできるのだ、自分にはまだこんな新しい一断面もひそんでいたのだ、その事実を、彼に、自信とともにしらせたことです。その自信こそ、「炎上」以前と以後の雷蔵を、別人にしたのでした。

「ぼんち」にしても同じことがいえそうです。この作品で雷蔵は、それまで彼自身が工夫を重ねてきた“”二枚目の魅力の表現

と“それを客観的なゆとりで自ら批判しながら表現すること”という二つをみごと一つの役に統一させてみせた。古風な二枚目男、しかも自分で、オレは何てイイ男だろう、などとウヌボレている男は、いまや、どこかコッケイなものです。雷蔵さんはこの「ぼんち」役で、そういった男のいじらしいコッケイさを、はっきり演技者自身つかみ、知った形で、出した。これは重要なことです。大げさにいうなら、このような演技法をつかむことによって、以後、彼は、すべての時代劇の役にも、現代人の感覚を通わせることになる。「ぼんち」はその意味で、「好色一代男」のそれこそ基礎となる重大な体験といっていいのでした。

七年という映画経歴は、大スタアの場合、決して長い年月ではない。市川雷蔵がわずか七年で今日の地位と人気と実力を−更に、両刀使いともいえる役の幅の広さを獲得したことは、むしろ、おどろきに価するほどの事実です。彼天与の美質も大きい。まじめな、着実な工夫と努力も、忘れることはできません。そして、彼が、幸いにもすぐれた監督に恵まれ、またそのチャンスをじつにドンランに自分のモノにしていったその気迫の激しさこそ、見落してはならぬことです。

多分今後も、雷蔵さんは、ファンと会社の命ずるまま、このような“スタア優等生”をもいえる幅広い活躍を、推し進めて行くことになる。或いは悩ましいばかりたおやかに、或いはたくましく、或いは軽妙なこっけいさで、さまざまな男性像の万華鏡を、私たちファンの前にくりひろげて行くでしょう。−しかし、それだけなら、むしろ当然のことだ。雷蔵がひつはそれ以上に頼もしいのは、年十本のそのような万華鏡のうち、ただ一本でもいい、それこそ、思いもかけぬ飛躍をなしとげる男だということです。しかも危げのない飛躍を・・・。(61年5月下旬号・近代映画「おけさ唄えば」特集号より)