想い出

ある雑誌社の方が京都の映画街に来てスターさんを連れ出す時には、その相手の人によって決めねばならぬ。仮に橋蔵さん、錦ちゃん、雷ちゃんと、この三人の場合、先方が行儀作法のきびしい人の時は大川橋蔵を、またその席が何一つ遠慮のいらないような席には中村錦之介を、また相手があまりしゃべらない退屈な時には雷ちゃんを連れていくことだと言われたことがあります。

市川雷蔵という人をスクリーンの上だけか、またある一面しか知らないファンの方たちにはこの言葉を不思議に思われる方も多いかと思います。このことをある後援会の集いの時に、本人は仕事のために出席できず、私一人でお伺いして、この記者の話をしたことがあります。その時その席には三十名近いファンの方たちが集っておられたのですが、一人として私の話を信じられた方はありませんでした。なぜならば後援会の発会式当時には、自分を後援してくださるファンの集いでもなかなか話をされないので司会の方、当時芥川隆行さによくお願いしたのですが、大変苦労をされていました。

会も進行していよいよ本人に対して一問一答という時になり、待ってましたとばかり会員さんから質問があった時に、その返事たるや実の味気ない返事で「またあなたは、なぜそのような質問をされるのですか。そんなことを聞いて何になるのです」と、まるで昔の大学教授が新入生のつまらぬ質問をたしなめるように決めつけると、今日こそは長らく待ち望んだ本人との対面で、仕事のこと、また家庭の中でのことを知りたいと無理な時間を都合して出席された方たちも急に尻込みをして、何一つも質問ができなくなるのです。

それが会も度重なって会員さんとも顔なじみになると今度は今日の集いは何点だ(5点とか7点とか)、こんな集いなら意味がない、無理してやることはないと、会の役員さんをつかまえて決めつける。そんな時、そばにいる私は取りなす言葉もなく毎度ひやひやしたものです。

また独身時代には会社の都合で三日と休みのある時には必ずといっていいほど上京されるのが常でした。それは東京在住のジャーナリストの方、文化人、またはあらゆる人たちとお付合いをして、少しでも自分の視野を広げるのだと、そんな時には私はいつも影の人のように必ずお供をしたものです。

数えて三十八歳はまだまだ若い。自分の構想であった「鏑矢」の仕事、また舞台出演も最後になって軌道がはずれ思いもかけない結果となり、どんなにかくやしかったことでしょう。私も残念です。

思えばあの日逝去される一ヶ月前、病院で二人だけで向かい合った目と目、無言の数分間。私はお聞きしたかった。それともたとえ口には出されずとも、すべては私がわかっていると思われたのでしょうか。あの日のことが今も念頭から去らず悔まれてなりません。十五年余りの思い出は数限りない私。ペンを取ったものの涙が先になり書くこともまとまりません。よく世間では毒舌家と言われながらもほんとうは淋しがりやで、子煩悩だった人、どうか安らかに。今一度さようなら。(大映京都撮影所演技研)