はにかみ多き古き日本男児

★彼には“国士”として姿勢が私生活にもあったようだ。「日本人は長い歴史の中で培われてきた日本の美と文化を守っていかなければならないのに、最近の若者はどうもそういう心値がなくなっていけない」と憤嘆している。三島由紀夫が雷蔵を指して“はにかみ多き古き日本男児の一人”と語っている。

▲歌舞伎という古い世界の中で育ったからだろうか、市川寿海はかなり厳格であったようだし。

★しかし橋蔵のように芸者を妾に持つような古い歌舞伎役者の“遊びの余裕”も持ちあわせていない。

▲彼の奥さんは永田雅一の娘だろう。

★だから浮気ができないんじゃなくて、やはりもともとマジメなんだろう。生マジメといった方があたってる。勝新のようにムキ出しでもないし、中村錦之助のようなひたむきなところがなく、裕次郎のような要領がよくない。いろんな役を演れて器用なんだけど、人間味としては生一本で私生活も不器用だったらしい。だから三島由紀夫は鶴田浩二とは別の意味で雷蔵のことを気に入っていたのだろう。かなりのインテリでもあったし。

市川雷蔵と女たち

▲市川雷蔵はよく他人の当たり役演らされているね。机竜之助とか、鞍馬天狗。机竜之助は片岡千恵蔵のイメージが強すぎるし、鞍馬天狗は、東映で東千代之介も演ってる。

★彼は、大映企画部の、特に時代劇に対する安易なヒーロー主義に強い不満を持っていたようだ。主人公がイージーに類型化されるのはおかしい。時代劇のクライマックスがなぜチャンバラでなきゃならないのか、という疑問を持てる役者だった。

▲そこが理論派と呼べる理由か。よくシナリオライターや首脳部にもクレームを付けたというし、同じやくざ映画でも「若親分」は元軍人でエリートという設定になっている。

★しかし、時代劇では東映に水をあけられていた大映は粗製乱造は承知の上で多作しなければならなかった。勝新は『不知火検校』(森一生監督昭和35年)で新しい個性が決まるまでは、まだ頼りなかったし、看板はやはり長谷川一夫と市川雷蔵の二人しかいなかったから、いいのも悪いのも本人の意思とは関係なく演らされた。

▲『弥太郎笠』なんかの股旅ものは颯爽としていた。池広一夫の『ひとり狼』が一応傑作中の傑作らしいが。

★中村錦之助に一連の長谷川伸のものがなければ、股旅役者の最右翼は雷蔵だった。

▲武士はどうだろう。若様侍になった『桃太郎侍』のシリーズもあったけど・・・。

★若様侍はやはり大川橋蔵の方が美しかった。

▲文芸ものは雷蔵の独壇場じゃなかっただろうか。『ぼんち』とか『華岡青洲の妻』は東映ではできなかっただろう。

★大映が東映と違う大きなものに、女優層の厚さがある。東映は単に添えものという感じだから、女優に本物が必要なときは有馬稲子のように他所から呼ばなければいけなかったが、大映には京マチ子、山本富士子、若尾文子といった連中がいて存在感があった。文芸ものには女が必要だから。言い方はおかしいが雷蔵は、彼女らと堂々とわたりあえた。そこが勝新とは違う。

▲女といえば、「眠狂四郎」の雷蔵は女と寝た。

★ヒーローとは女に対して淡白と決まっていたのが、雷蔵は初めてタブーを破った。『ぼんち』でも女には自堕落だった。女との情事が演じられるエロティシズムも市川雷蔵の一つの面ではないか。