江戸の色、映画の光

雷蔵には江戸の美がある。

上方までふくめて元禄に花開き、やがては南北歌舞伎に象徴される爛熟をみた江戸時代。その文化遺産である大いなる一つの「色」を江戸カラーとでも呼ぶなら、それこそが雷蔵の魅力だ。

先日、八十四になる母が、雷蔵の没後三十年と知って、「いい男だったねえ。あっさりときれいだったよ。ああいう色気の方があとを引くね」と言う。老母が一瞬女の顔に戻ったように見えたので、おもしろがって突っこんで訊いてみると、母が昔よく見ていた東映時代劇の橋蔵や錦之助は、同じ二枚目でも色男としての見得を切ったサービスのいい顔だが、雷蔵の色気はもっとシンプルなものだ・・・どうやら、そんなことを言いたいらしい。

愚母の言葉だが、愚息も似た意見である。浮世絵。それも長谷川一夫の錦絵ではなく、一色刷りに近い、色数をおさえた浮世絵。

江戸時代、簡潔な造りの版画が襖絵や屏風絵の華麗さを圧して、日本の近代化の幕を開いた・・・雷蔵の魅力は、そんな江戸版画の役者絵そのものだ、そう思う。

役者絵であり、文楽の人形である。

雷蔵は演技者としても高い評価を受け、時代劇ばかりでなく現代劇、大衆映画から芸術映画まで、硬軟、明暗を自在にこなしたが、そんな演技者としての雷蔵が、ちょうど文楽の人形遣いが人形に命を吹きこむように、自分の絵姿に役の命を吹きこんでいった・・・。

歌舞伎狂いの友人が「踊りの名手は、舞台せましと駆けずり回ったりは絶対にしない。広い舞台のわずか畳一畳ぶんくらいの中に動きをおさめて、すべてを表現する」と言ったことがあるが、雷蔵の演技がこの畳一畳だ。必要以上に目をむいたり、顔をゆがめたりの芝居がかったものがない。余分な動きをいっさい排除した美学と呼びたいほどの簡潔な演技スタイルがあった。この簡潔さがどんな役の輪郭にもすっきりとなじんで、たとえば同じ大映でも、役の輪郭を突き破って役者ぶりを見せつけてきた勝新太郎より、柔軟で近代的なものを感じさせた。同じ芝居でも、勝新は舞台的な役者であり、雷蔵の芝居の方が映画的な近代性をもっていた。

雷蔵にはまた浮世草子があり、「西鶴」がある。

雷蔵の時代劇には「眠狂四郎」シリーズ等など南北歌舞伎にも通じる退廃色の濃いものが主要路線としてあって、黒羽二重の艶が似合う色白の二枚目ぶりが確かに売りではあったが、その本質は意外なほど明るい。

江戸は町人文化だ。粋で明るく、バイタリティに溢れ、機知と諧謔に富んでいた。

雷蔵の素顔を僕はまったくと言っていいほど知らない。しかし、濡れ髪シリーズのような軽い役や『ぼんち』のヤワな役を闊達に、粋に楽しんで演じている雷蔵を見ると、この方が素顔かなと想像する。

ことに『ぼんち』は、現代劇でありながら、本家の『好色一代男』以上に西鶴の世界があって、個人的な好みを書けば、この作品あたりに一番魅力的な「雷蔵らしさ」が出ていたと思う。そしてこの映画など、まさしくフィルムの一コマ一コマが、浮世絵だった。

もともと大映という映画会社のカラーに浮世絵とそっくりなものがあった。宮川一夫、小林節雄といった名カメラマンは見事な現代の浮世絵師であり、雷蔵映画を数多く撮っている三隅研次監督は素晴らしい絵双紙作家だ。

フランス映画をしのぐ美的な映像をもつ市川崑作品やイタリアの美術品を思わせる増村保造作品も、非常に外国的に洗練されているように見えて、実はすべて江戸版画の色であり、浮世絵の光だ。大映にかぎらず、映画というものがもともと浮世絵がもっていた近代的な光を「今」に焼き直した版画だと思う。

多くの男性ファンが、晩年(と呼ぶには若すぎる!)の『陸軍中野学校』と『ある殺し屋』での背広やコートをまとった雷蔵が一番好きだと言う。僕もまた、若くしてベテランの域に達していた雷蔵にこんなフィルムノワールばりの映画に似合う新鮮さがあったことに驚いた一人だが、この二作が版画の美しさに満ち、雷蔵が版画そのものの魅力をもった俳優だとすれば、当然の成功だったのかもしれない。それに浮世絵がフランスの印象派に与えた影響、溝口健二がヌーベルバーグに与えた影響を考えれば、大映映画とフランス映画の美質はもともと似ていたのだろう。

女性ファンが感じている色気を、僕はもちろん説明できない。ただ、僕個人が市川雷蔵という俳優に感じていた色気は、よく言われるスターの花とか役者の色っぽさとは違って、もっと近代的な光、江戸版画の光・・・映画そのものの光に似ている。

愚母の言葉は、正しいのかもしれない。映画の光そのものに似た雷蔵のシンプルで、底光りするような色気を、僕もまた没後三十年ひきずってしまった。(「東京人」99年9月号より)

(「東京人」99年9月号)