試写室のメロディー

地上より永遠に

夜中に電話が鳴った。まずは甥っ子からで、「知ってる?」

次が友人からでやっぱり「知ってる?」一時間ぐらいして寝ようと思ったところへまた電話が鳴って「知ってますか?」−

松田優作さんが亡くなった日のことである。

その少し前に『ブラック・レイン』の松田優作がいいと聞いたばかりだったからその突然の死自体にも多少の驚きはあったけれど、僕がもっと驚いたのは優作サンのファンでもない人たちが、ファンでない僕のもとにわざわざその死を報告してきたことだ。松田優作という人は、研ぎすまされた剃刀の刃みたいな容姿をしていて顔を合わせただけでこちらがかすり傷を負いそうな、そんな魅力があったけれど、その剃刀を感性として自分の内にも秘めていたかどうかとなると、うーん、かなり疑問で、そのぶんスター性は上だったかもしれないけれど、役者としてのランクづけでは僕はいつも原田芳雄や内田裕也の下においていた。僕にとってただそれだけの男優さんの死が、睡眠妨害までされてなぜ報告されなければならないのか。ちょっと腹を立て、その後で少し心配になってきた。

翌日テレビの芸能ニュース番組が大騒ぎをしていると聞いてさらに心配になった。

最近はどんな大事件も死もテレビの手で祭りにすり替えられる。石原裕次郎の死も美空ひばりの死も、お上の“あの人”の死も日本をあげての大祭になってしまった。その大騒ぎでスターさんがいよいよ神格化されるというのならそれでいいのだが、何だか僕には騒ぐだけ騒いで、祭りのあとのゴミのように無意味なものとして忘れ去られてしまいそうな気がするのだ。

優作サンのファンではないけれど、何本かの映画でその魅力を燦かせたスターさんではある。死とともにさらに大きなスターになってほしいとは思っている。

昔のスターはその死とともに完璧なスターとなった。神秘性がスターを作りあげるものであって、死はそのための最高のヴェールだった。言うまでもなく、ジェームス・ディーンもマリリン・モンローも死とファンの涙とをヴェールとして最高に巧みにまとったスターだ。

だから僕はスターの死をあまり悲しんだりすることはないのだけれど、それでも時々あのスターが今も生きていたらどう変わっていただろうかと考えることはある。ジェームス・ディーンやマリリン・モンローに関してあまりいい絵は浮かんでこないのだが、たとえば市川雷蔵あたりのことを想像すると、死んだ当事、既にスターとしても役者としても揺るぎない完成度に達していた人でありながら、今も生きていれば当時よりさらに年輪の厚みと深みを加えた芝居が見られたのではないかと、今さらにその死を悼んでしまう。

僕の子供の頃から雷蔵は勝新太郎とともに大映の二枚看板だった。大映末期には田宮二郎がもう一人加わるけれど、大映の顔というと僕はこの二人になる。

勝新はご存知の通りの、自在に変化する軟体動物型の役者である。無軌道であり鋳型がなく、そこが天才的な役者にも見える。それに較べると雷蔵は二枚目だったぶん、鋳型のきっちりとしすぎた不器用そうな役者に見えた。勝新の“動”と較べるといかにも“静”であった。