子供の頃は勝新の“動”の方が面白かった。あれは僕が幾つぐらいの年齢の時の映画だったか正確には憶えていないのだが、「次郎長富士」という映画があって、勝新は森の石松を楽しげに演じていた。雷蔵は吉良の仁吉役を役どおりの真面目くさった顔で演じていただけだった。役者としては勝新の方が上だな、何年かそう思いこんでいて、眠狂四郎や若親分より座頭市や朝吉の方をどちらかといえばひいき目で見ていたのだが、歳月を経て多少体が大きくなれば映画や俳優を見る目も肥えてくる。

大学時代池袋の名画座で「炎上」を見直した時である。子供の頃見たチャンバラ映画のスターがどうしてこういう映画に出るのだろうとぐらいにしか考えなかったのだが、三島由紀夫や市川崑の世界もよく知った上で見ると主人公の暗い美学を適切に表現しながら、同時に歌舞伎の立て役としての花を他のチャンバラ映画以上に感じさせた。「破戒」にしろ「陸軍中野学校」にしろ、それから「ある殺し屋」にしろ、むこう正面を唸らせる大芝居ではなく自分を枠の中に閉ざした、ある意味では控えめすぎるほどの芝居なのだが、そういう枠があって初めて色気というものが滲みだすことがよくわかった。

色気が“静”からしか生まれないこと、“静”が“動”よりもはるかに危険であり過激であることを、僕は市川雷蔵という役者の芝居から教わったと思う。

この役者が眠狂四郎を当たり役にしていたのは当然なのだ。

勝新も依然悪くない。NHKの大河ドラマでは秀吉を昔以上の奔放さで余裕たっぷりに演じていた。しかし全盛期から二十年経って今年もまた、「座頭市」というのは少し淋しい。雷蔵の方は役の枠の中に自分を閉じこめることで、かえってどんな役も自分の役にすることができた人だ。

今年の秋は利休戦争が話題になった。二本とも別々の意味で僕には面白かったのであるが、今利休の静とその裏にある動を演じられる役者がいない。三国連太郎は名優だし、三船敏郎も今僕はその無骨さや不器用さが改めてこの俳優の芝居の巧さなのだなと再評価している人なのだが、どちらも千利休役にはどうも、と首を傾げてしまった。二本の映画を見ながら、僕は雷蔵が生きていてこの役をやっていたらと、しきりに考えてしまった。

今、一部で雷蔵ブームが起こっている。いや、テレビの深夜番組で眠狂四郎や若親分のシリーズが頻繁にやられているところを見ると全国的に、と言っていいのかもしれない。

キネ旬の僕の担当だった橋本サンは「ファンクラブを結成したい」とおっしゃるほどの雷蔵ファンなのだが、そんな会ができれば僕も隅っ子の会員の一人にさせてもらいましょう。

最近大スターがいなくなったので映画ファンの目が死んでしまったスターや過去のスターに向くようになった。ジェームス・ディーンやモンロー、ヘップバーン。もう一人芝居らしい芝居をしないことでかえって本物の役者だなと思わせた佐田啓二の再評価も起こってほしいと思うのだが、松田優作サンも惜しまれる今度の若すぎる死で逆に生前以上の大輪の花を咲かせてもらいたいと切に願っている。

今回で三年の予定だったのに一年伸びてしまった連載は終わりです。死ぬわけではないけれど誰方か一人でも惜しんで下さる人はいるのだろうか???−有難うございました。 (「キネマ旬報」90年1月上旬号より)