時代劇の未来を賭けた二つの顔

 「錦ちゃん」と「カミナリ」。
 錦之助と雷蔵は、時代劇の美剣士として出発し、
ともに庶民から親しまれてきた。
 その二人が、今年のトップスターとして期待されている。
 名門意識との決別、美貌の否定、近代青年としての呼吸
 華やかに見えるスターの生活野の中の真剣ないとなみを
大写しにしてみよう。

 羽田発午後十一時三十分。中村錦之助は、クリスマス・イブの日に、アメリカに旅立った。ハワイとロスアンゼルスにある後援会から招かれたという。彼が、年末年始のあわただしい日本を離れたのは、それだけの理由ではない。

 「ぼくは親不孝で、わがままだった。亡くなった父(時蔵)は、ぼくと一緒にアメリカへ行きたがっていたのに、ぼくはそれを果たさなかった。この機会に母を連れて行って、ぼくの気持の中にある父を慰めたいと思うんだ」

 市川雷蔵は『新・平家物語』で開眼した。それまでの彼は、映画批評家たちの口の端にものぼらなかった。彼は、はげしいコンプレックスに悩んでいた。だから、平家物語で清盛役を与えられたとき、彼はぶったおれるまで稽古した。映画が封切られると、彼の演技は映画界の焦点とさえなった。

 しかし、彼の父(市川九団次)は『新・平家物語』の撮影中に、息をひきとった。九団次は、雷蔵が映画界入りを希望したとき、賛成しなかった。が、こういって折れた。「それほど映画がやりたいなら、いくがよい。だがな、映画に入ったら、二度と再び舞台に帰ってくるのではないぞ」

 錦之助も雷蔵も、歌舞伎の世界からスタートした。それだけに、彼らの父親は“肉親”であると同時に“師匠”でもあった。二人とも、その宿命から脱出したとき、父親たちはすでにない。

 近代的な青年俳優 - の陰の、共通の話題である。