日本映画好敵手論

中村錦之助・市川雷蔵


       

 しかし、それほど犠牲を払って彼を主演させた映画に、彼が満足しているかというと、そうではない。彼は、彼を売出してくれた人と作品とをドライに割切って、別な評価を下している。錦之助がナイーブに懸命につとめているとき、彼はすでにオブジェ化されかかっている自分を冷たく眺めていた。それが、彼の扮する人物に、華やかさを後退させ、一抹のニヒル的鋭さとなって出ている。ちょうどそのころ、溝口健二が『新・平家物語』を映画化し、主人公の若き清盛に、彼を起用した。ぼくは、彼の時代劇中、この清盛が一番生気に富んだ演技であったと考えているが、それは多分、公卿階級に圧迫され、青春の野心の吐け口を求めてもだえていた身分違いの若き武士清盛のすがたが、一番それまでの彼の歩んだ人生の道と酷似していたからであろう。しかし、この作品も、彼を充分満足させなかった。幸いにこのころから、やっと大映の看板俳優となりえた彼は、その力によって何か積極的な作品をつくろうという意欲に駆りたてられていた。

 錦之助の演技開眼は、与えられた役に思い切って体当りして、吹っ切れた気持を体得したが、雷蔵は、頭で自分の演技を切りひらこうというのである。その結果、彼が選んだのは、市川崑との提携による『炎上』である。彼が自分の芸術的脱皮を求めたのは、前にもいったように、すでにオブジェになりかかっている時代劇の中でなく、全く新しい領域たる現代劇の中だった。かって自分を売り出してくれた人への感謝と、作品への不満を、賢い経理士のように区別して、そのバランスシートを忘れなかった彼は、時代劇を、オブジェたる彼の行く道とし、現代劇こそ、自己発見の道と区別したのである。

 この冒険は成功した。『炎上』は、ベスト・テンに入り、彼自身その年度の主演男優賞を獲得した。この題材にも、彼が不遇の暗い青春時代になめた辛酸を反芻さす要素があったからである。この点、彼の頭のよさはみごとである。しかし、それにもかかわらず率直にいうと、この『炎上』の主人公の役は、決して最上の演技ではなかった。まだ生硬で鋭くはあったが、深さが足りなかった。いわばトゲトゲしい生の鋭さだった。観念的理解に、肉体がつきしたがわないはがゆさと、表情の単純さが裏書している。能動的な彼は、主演のとりあげ方において、受動的な錦之助より、はるかに野心的である。しかし、演技のコツのつかみ方にいたると、理屈をいわずに、カンで演技をする錦之助の方が一枚上のようで、一応演技の技巧を体得している。

 ここで別な比較論をこころみてみると、この両人の対照的関係は、どうも岡田茉莉子と有馬稲子とのそれにソックリである。この「好敵手論」の中で、この二女優が取りあげられることはないとしても、あまり立入って述べる暇がないが、岡田の勘のよさと有馬の頭で計算する演技、岡田が与えられた題材のなかで伸びてゆくに反し、有馬は、自分で作品を選定する。という差は、錦之助・雷蔵の対立のなかにも現われている。