日本映画好敵手論

中村錦之助・市川雷蔵


       

 これをもっと平たく言えば、知と情との対立であり、演技の上に移せば、感情移入と知的解釈の対立である。錦之助の演技が豊かさを加えたのは、いいかえれば、彼なりの感情移入が成功していることであり、雷蔵の演技の鋭さはその知的理解の結果である。この点錦之助の演ずる人間が、情的に温かく、雷蔵の扮する人間に何となく冷たさが帯びるのは、この二人の性格の最も明確な現われといいきれそうである。

 もちろん、このふたりの前途は、にわかに予断しがたい。しかし、ともに、まだ人生の第一の関門である青春をすぎたばかりで、本当に人間ができあがる壮年期をこれから迎えようとするこの二人である。芸術の上の真の試練は、これから始まる。受動的だった錦之助が、今後は、自ら積極的に題材を選ぶ方向に転ずる可能性も充分にあれば、一方積極的な雷蔵が、彼の出る領域を二分する時代劇と現代劇との両分野をひとつにして、新しく体あたり的に、すなわち肉体をもって、これに挑戦する日がくるかもしれない。とにかく、この冷熱の両極にあるふたりが、これから人生体験を積んで、それを芸術的に開花さす未来は、楽しみである。それが、どんな形であろうと。

 因みに、この二人は私的には仲がよく、気の合った友達づきあいを続けているそうである。お互いの映画もよくみている。錦之助の雷蔵の『若き日の信長』評は、「あんなに理屈っぽい信長では・・・」であり、雷蔵の『浪花の恋の物語』の批評は「演技はとにかく、あんなセンチな男では・・・」と、くしくも、自己の立場から相手の特徴を端的についているのは面白い。せいぜい暇をつくって、会って論争することである。何しろ負けん気同士だから、口では頑張るだろうが、案外腹にこたえることがあるかもしれない。その心の声をきく方は、だれだろう。