時代劇の未来を賭けた二つの顔

二度と舞台に帰れない

 そこで彼らの“出発点”からふりかえってみると - 中村錦之助は時蔵の息子だが、その時蔵は名優・中村吉右衛門、中村勘三郎にはさまれた兄弟で、文字どおり名門中の名門である。その四男として生まれた錦之助は歌舞伎の世界で一応の前途を約束されていた。

 一方、雷蔵の父、市川九団次は関西歌舞伎の大部屋役者で、いわば“うだつ”の上がらない部類に属する。九団次は、自分自身が好きで入った道だから、それも仕方がないとあきらめていたようだが、息子の雷蔵にまでミジメな思いをさせたくないと考えていた。歌舞伎の世界では、いくら演技が達者でも、家柄によって役がきまってしまう。息子の雷蔵を歌舞伎役者にだけはさせないつもりになったのも、当然だろう。が、やはり蛙の子は蛙であった。役者になるといってきかなかった。

 十五才のとき初舞台をふんだが、これも錦之助の初舞台四才にくらべるとたいへんなちがいであった。しかも錦之助が、父の時蔵、吉右衛門、先代歌右衛門とともに出演して口上をのべたのにくらべると、さびしいものであった。

 雷蔵が歌舞伎の世界に入ると、そこは親心である。このままでは自分と同じ運命をたどることのいなると思って、息子を名優の家へ養子にやることを思いついた。九団次は市川寿海の家の門を叩いた。

 市川寿海は昨秋芸術院会員になって、いまや関西歌舞伎の一級の俳優であるが、若いころには家柄のよくないために苦しんだ。それだけに九団次の心情もわかったし、とうとうその熱意に負けて雷蔵を養子にした。

 映画界に入ってから - 錦之助の名前は、みるみるうちに世間に知れわたった。『花吹雪五人娘』で美空ひばりと共演したのも幸運だったが、そのあと、すぐ東映に入り、第一作『笛吹童子』に出演して子供ファンの人気をさらった。それから『紅孔雀』にいたるまでの一年の間に彼は人気スターのランキングに入り、三十年からは「平凡」の人気投票ではトップに立つようになった。いわゆる順風満帆である。

 一方雷蔵は、当時二十才をこえたばかりで、歌舞伎役者として一ばん大事な時であった。ここで映画に入って、失敗すれば再び歌舞伎にもどることは許されない。時あたかも、尾上松緑が、「映画界入りした大谷友右衛門とは、ともに舞台をふまない」といったとかいうウワサもある。

 養父の寿海も、雷蔵の映画入りはかなり考えたほどである。雷蔵にとっては“当たってクダケロ”という気持だ。だからこそ「映画で失敗しても舞台には帰ってくるな」という言葉に、うなずけもした。

 雷蔵が大映と契約したのは、昭和二十九年六月、錦之助の東映入りより半年あとだ。が、彼は、錦之助のように順調にはいかなかった。まず“演技”の点でイヤというほど自分を知らされたのである。