時代劇の未来を賭けた二つの顔

拍手が招いたチャンス

ある日の雷蔵。この日、彼は撮影所に孤児たちを招いた。(大映京都撮影所にて)

 「雷蔵を出して大丈夫かい。まだ無理なんじゃないか」

 製作スタッフや演技陣が、露骨に心配そうな顔をするし、その不安を口に出していうのである。『千姫』の撮影のときだった。相手は大映はもちろん、日本の女優の中でもピカ一といわれた京マチ子である。雷蔵が逆立ちしても追いつける相手ではなかった。

 つづいて『幽霊大名』という作品で、日本映画界の重鎮・長谷川一夫の相手役になった。こんどこそ!と考えていると、監督は雷蔵にむかって「いったいできるかなあ」と言葉をかけた。はげしいコンプレックスの毎日「その頃の雷蔵は、まったく、あぶなくって、見てはいられなかったよ」酒井撮影所所長も、雷蔵を大映に入れた手前、ハラハラしていたのである。雷蔵も「そう、ほんとうにあぶない頃でした」と認めざるをえない。

 こんな思いのまま『美男剣法』『次男坊鴉』『鬼斬り若様』などに、無我夢中で出演していた。人間のチャンスとはいつ、どんなときに訪れてくるものかわからない。入社して一年後のある日、日本映画協会が後楽園を借りきってナイターの親睦野球を行った。そこは人気商売、雷蔵も当然参加した。

 「その夜の光景を、雷蔵はまたと忘れえないであろう。場内のスピーカーが、次々にスター選手の名をよびあげていき、やがて“市川雷蔵さん”と、彼の名を、場内にコダマさせた。すると観客席からはげしい拍手がまきおこったのである。それは、鶴田浩二や池部良に与えられた拍手と同じものだった。大衆は、彼を愛していたのだ」・・・。

 撮影所のある人は、映画スターの“人気”の不思議さを語るのである。人気は、演技よりも先に出ることがある。会社が、この拍手=人気を聞きのがすはずがなかった。その夜、いちばん驚いたのは、永田雅一氏だったという。そのせいかどうか、雷蔵は『新・平家物語』に名を連らねることになった。しかも“清盛”というカナメの役で、それまで鶴田浩二か池部良かといわれていたものだ。

 監督は溝口健二氏。日本では有数の巨匠である。それだけに仕事のうるさいことも有名ではスタジオ・マンの間では「いちどでいいから、溝口をなぐってみたい」という“悲願”もあったという。

 はたして、撮影に入ると、現場には一種の鬼気がただよった。雷蔵はといえば、まだコンプレックスからぬけきっていない。が、彼は考えた。「ここで溝口監督の雰囲気に負けたらおしまいだ」−。

 なにもかも、新規まきなおしのつもりで、歌舞伎俳優時代におそわった“役になりきる”という言葉をかみしめた。そのあげく、脚本を五十回ぐらい読んで、徹底的に役柄を理解することにした。いままで、セリフはテープにとって練習していたが、ある“恐ろしいこと”に気がついてやめた。というのは、セリフをテープでとると、どうしてもひとつの型ができてしまう。もし、それがだめな場合、すぐ別の型にかえることができない。いわば“背水の陣”のかまえである。

 しかし、それでも、溝口監督のきびしさは、まだ甘かったのである。まず、メーキャップテストだ。メーキャップして、まっ暗な部屋に入ると、ライトが雷蔵だけに当てられる。むこうはまっ暗だから、誰が誰やらわからない。すると、「あれではだめだ」「これでもだめだ」とみんなから言われて、リハーサルの連続になる。まるで、検事に尋問されているようなかっこうだ。しかも、雷蔵だけにライトはあてられているのである。ちょっとでもいやな顔をすれば、たちまち見破られてしまう。

 メーキャップテストがすむと、つぎは歩く稽古である。溝口監督のテストははげしかった。三十回ぐらいのテストはあたりまえだった。大きな石のある川原を走るシーンがあった。ここを下駄で三十回も走っているうちに、足の関節がおかしくなった。そしてとうとう、ぶったおれてしまった。

 この作品のカメラマンは宮川一夫氏だった。雷蔵は、この人にカメラの約束事をおそわったが、そのとき、溝口監督が「若いのになかなかよいね」と宮川氏にいったこともきいた。彼ははじめ、その言葉をうたがった。かんたんに人をほめる溝口監督ではなかったからである。しかし、宮川氏から、「雷蔵君、若さでやりなさい」といわれたときには、体がほてる思いだった。