ついでにいえば、上方育ちだからわたしは、すこしちがうのではないか、と常日ごろ雷蔵は江戸言葉、江戸訛りずいぶん気にしていた。せりふのあいだに知らず知らず顎が上ってくる。語尾が明快になりすぎる。それをいうのだなとおもいながら、気にするほどじゃないよ、といつも答えていた。雷蔵は上方育ちの役者にはめずらしく、サラリとした芸風だったから、わたしの答えは当っていたとおもう。そういうところは大の字のつく人気役者でありながら、たいへん謙虚なひとだった。

役を演じていないときの素顔は、いっしょに東京の街を歩いていても、誰も雷蔵とは気づかぬほどカタギの青年で、とても役者とは見えなかった。かなりの冗舌で、他人の艶物まで好むような日常であるのに、ひとたび映画で演じはじめると、たちまち悲愴感がみなぎり、儚げで、不倖せがよく似合う。役と素顔と、ほんとうはどちらが演技だったのか、わからなくなってくる。

いま、雷蔵をおもいうかべると、あの軽やかな微笑しかおもい出せない。「いかんですなあ、いかん、いかん」何がいけないのか、よくわからないけれど、そういうのが口癖だった。プロデューサーをやるんだ、とよく言っていたが、あれは本音だったか、どうか。映画のほか、舞台の仕事をいっしょにやろうとも言っていた。話上手だったから、講演などにもいやがらずに出かけていったようだ。一度くらい戯談でないのを聴いておけばよかった。

役者にとって「老い」ほど残酷なものはあるまい。ましてや、美貌が売り役者には、「老い」との抗いは業のようなものであろう。長谷川一夫は林長二郎といった昔から、一度も主役意外つとめたことのない美男俳優だったが、とし五十歳になったとき、「映画にはクローズアップがあるから」と引退し、舞台へ仕事を移した。舞台の名優花柳章太郎は、同じ理由から映画を怖れた。

やがて、とし三十をすぎて、雷蔵の「老い」はまだ遠くにいたのに、それにもまして怖ろしい死神、癌という「病魔」がとりついて、にわかにその生を奪っていった。

病いが重くなりはじめてから雷蔵は、もう近親者のほか、誰にも会おうとしなかった。たくさんの将来が残されていたはずだのに、さぞ無念であったろう。

そんなに長くはない付き合いだったけれど、深く気心の知れた友人として多くの楽しい時間を過せたのは幸せだった。ほんとうに親しく付合える友人というのはなかなかいないものだ。大切なひとだった。

世にあること三十七年。

美しいものが美しいまま、卒として世を去った。(「東京人」99年9月号より)