《雷蔵を偲ぶ》 (『日刊スポーツ』より)

市川雷蔵の命日は昭和44年7月17日、行年37歳だった。生まれたのが昭和6年8月29日だから生きていればあと二日で44歳になるところだ。役者としては脂の乗り切った年齢だが、今思うとあの年で惜しまれて死んだ方がかえってよかったのではないかという気がする。最近この雑な世の中を生きて行くには彼はすべてが端正すぎた。

雷蔵は昭和29年勝新太郎と一緒に大映から新人の名のりをあげたが、この二人くらい対照的な性格の持ち主はいない。文字通り動の勝に対して静の雷蔵。二人を並べてのパーティなどでは、談論風発、手振り身振りでしゃべりまくる勝の傍らでゆったりと落ち着いた雷蔵がニコニコしながらそれを聞いている。そのくせ時々鋭い皮肉をとばしたりもするのだ。それも決して毒を感じさせない。むしろユーモアで包んで周囲を笑わせる、といったようなしゃれた皮肉。それが雷蔵にはよく似合っていた。

京都の宿に訪ねると綺麗に片づいた部屋で和服にくつろいだ彼が穏かな微笑を浮かべながら待っている。月並みなあいさつなんかは抜きだが客の前であぐらをかくようなことはしない。それでいて相手を十分くつろがせる雰囲気を持っている。よく通る声で要領よくしゃべり、例の皮肉を時々混ぜたりする。ただし決して話を脱線させるようなことはない。どこでいつ会ってもそうだった。もし日本人に紳士という言葉をかぶせるのなら、まさに彼なんかピタリだろうと思われた。

その彼が突然入院し、-と思っているうちに退院した。その時だ、ふと彼の身にかげりのようなものを感じたのは。その後静養のため映画にしばらく出ないという彼に、日生劇場で偶然会った。フチなし眼鏡をかけダンディな服で、態度は全くいつもと変らない。かげりを感じたのは取り越し苦労だったかと安心したが、それから間もなく再入院した。ガンだった。

今度はなかなか退院出来そうにもない。見舞いに行かなくちゃと思って関係者に様子をたずねたら面会謝絶だという。そしてその時何とも悲しい話を聞いた。やせて行く一方なのを気にした雷蔵が、渋る家族に無理に手鏡を持ってこさせて、やせ衰えた自分の顔をみて泣きに泣いたというのである。役者としての終わりをその時知ったのだろうか。

「死に顔は誰にも絶対に見せないで欲しい」というのが遺言だった。(昭和50年8月27日版)