眠狂四郎は証券マン

仕事をしたのは、1961年度の「好色一代男」(増村保造監督)たった一本だけなのに、なんだか、ずい分親しかったという気がしてならない。

その作品のアシスタント・プロデューサーだった藤井浩明氏と一緒に、はじめて、大映京都撮影所で、市川雷蔵氏と会った。
私は、学生時代、かかさず観にいっていた、いわゆる武智歌舞伎以来の、雷蔵ファンであった。映画入りした雷蔵が主演した市川崑監督の、「炎上」や「ぼんち」を見てから、ますます、氏のファンとなっていた。

スタアというヤツは、大抵の場合、スクリーンでどんなに素晴しくても、現物に接すると、たちまち幻滅するのである。私は、大映京都企画部のソファで、雷ちゃんが現われるまでの、わずかな間、かすかな不安を感じていた。

そんな杞憂は、朝のツユのように消えた。スタアに共通な、やわらかでアイマイな微笑の背後に隠された傲慢、いつも自分の役の重さだけを考えている空虚な目、それらは、氏には、全く見出されず、私は更に一層、氏のファンになったのである。

「好色一代男」のシナリオの、第一稿があがったあと、氏はさまざまな意見をのべたが、それはすべて、自分の役を少しでも良くしようという単純なエゴイズムから発想されたものではなく、作品全体を、より深いものにしようとする巨視的な発言だった。私は内心、舌をまき、この男は今に、途方もない大物になるぞ、と思った。俳優の器からはみだした何かが感じられた。それが何だったのか、俳優のまま、死んでしまったのだから、分るすべもない。

「好色一代男」の数度の打合せの間は、氏も又、私に好感をもったのか、同世代の親しみからか、おそらくその両方と思われるが、東京へ出てくるたび、氏は、私に電話をかけてくるようになった。

「雷蔵です。仕事中ですか?今、六本木なのやけど、気晴しに飲みにでてきませんか?」大抵の場合、私と雷ちゃんと、藤井プロデューサーの三人で、アメヤ横丁(当時、外国製品が安く買えるので、有名だった商店街)、ぶっつけで入る銀座の高級バー、中華料理やフランス料理、そして最後は、新宿のゲイバー「ふくわ」に、たどりつくのだ。

「ふくわ」という店は、今はどうなってしまったのか知らないが、その頃はマスターの軽妙な話術で、芸能人や小説家などがよく集まる、いわば観光ゲイバーのはしりのような存在だった。

平常の雷ちゃんは、まことに地味なので、どこへ行っても、まず気付かれることはない。これは私の勝手な推測だが、顔が売れすぎてしまって、食事をするにせよ、酒を飲むにせよ、きまった所へしか行かれなくなるスタアたちは、自然に庶民の生活感情から遊離し、その結果、演技にリアリティを失うという事態を招く。
雷ちゃんは、向上心にみちあふれていた人である。化粧を落とし、眼鏡をかけ、背広にキチンとネクタイをしめると、まるで銀行員か証券マンのようになり、目立たなくなる自分をよく知っていて、地下潜行をし、巷の中から、俳優市川雷蔵の栄養分を吸収しようという目論見を、常に、持っていたのではないのだろうか。

ぶっつけに入った銀座のバーで、映画狂の若いホステスが、「こちら、市川雷蔵さんに、そっくり」といった時、氏はキョトンとした顔で、「それ、誰ですか?」と答え、その態度があまりに自然なので、ホステスはコロリと、だまされ、「映画スタアよ。知らないの?イヤあねぇ」軽蔑しきって、鼻に、シワをよせた。

その夜は、初夏の甘美な空気がただよう気持ちのいい晩で、私たちは変に陽気になっていて、雷ちゃんが宿もとらずに、飛行場から銀座へ直行していることを、うっかり忘れていた。気がついた時は午前二時で、アワをくった藤井氏が、片っぱしからホテルへ電話をかけて問いあわせたのだが、あいにく、どこも満室であった。

丁度、私は、お茶の水の“山の上ホテル”にこもって仕事をしていて、そこへ電話で呼びだされ、出てきていたので、もしよかったら、僕の部屋で寝ていきませんか、と提案した。

誤解を招くといけないので書いておくが、私はシングルの部屋にいたのではない。当時の映画界はかなりのユトリがあり、私はツイン・ルームを一人で借りていたのである。

べつだん、雷ちゃんと、ひとつのベッドで寝たかったわけではない。(シナリオ2002年7月号「人間万華鏡・第6回 市川雷蔵氏(1)」より)