ザンゲの値うちもない

部屋におちつき、藤井氏が帰ったあと、しばらく雑談に、ふけった。不眠症と、胃腸が弱くてすぐ下痢をするという肉体的なナヤミを訴えてから、寝酒にウィスキーを註文しようと電話をとった私に、雷ちゃんはいった。

「ぼくも胃腸がスッキリしなくてなあ、でもブランディをのむようになってから、調子が、かなり、ようなった。ブランディになさい。よう眠れるし、胃腸にもええ。」

忠告にしたがって、私はもともとノメる体質ではないのだが、寝酒はブランディ専門と、きめた。

あの夜あけの会話が、妙に、心に残っている。

ブランディがきいたのかどうかは分らないが、私の下痢は、ヒンパンではなくなった。後日、そのことを報告すると、氏は嬉しそうに微笑して、何度も、うなずいた。

私は、下痢どころか、ここ数年、ドンドン肥りだし、今では80キロを越す体重だが、雷ちゃんの場合は、私とかなり事情が異なっていた、と思われる。あの頃から、ガン細胞は、氏の体内で、ひそかな活動を、開始していたのではないだろうか。

翌日、昼すぎになって、目をさました私が、隣のベッドを見た時、すでに氏の姿はなかった。午後から、京都のスタジオで撮影があるといっていたから、午前中の飛行機で、帰ったのだろう。

ベッドは、整頓され、白い毛布の上には、キチンとたたまれた浴衣が、置かれてあった。−雷ちゃんを思いだすとき、私は、胸の奥底が、今もなお、自責の念で、チクチクと痛むのである。

深夜の街を、彷徨しながら、雷ちゃんは片時も仕事のことを忘れていないのであった。徹底した娯楽時代劇で会社を儲けさせる代りに、年に一本は、現代へ肉薄する野心作をやりたい、といった。

自分は、白ぬりの時代劇の様式的な演技も、勿論できるのだが、本質的にはリアリスティックな芝居の方が、どうも向いているように思われるといった意味のことも、語った。

1961年十二月の、クリスマス前後のひどく寒い夜、藤井氏と二人で「ウエストサイド物語」の試写を見たあと、氏は、「明日、雷ちゃんが婚約発表の記者会見をやるんだ。」と、いった。

雷ちゃんが結婚すると、前からきいて知っていた私は「ああ、そうなの」と、うなずいた。

その時分から、マスコミの取材競争は、すでに気違いじみた様相を呈しはじめていて、週刊誌やスポーツ新聞等の、どの一社にスクープされてもまずいので、今夜ひそかに雷ちゃんは上京してきて、この近くの旅館に隠れているんだ、と藤井氏はつづけた。「外へ一歩も出られないし、一人で退屈している。だから、一寸寄ってみない?」

場所はすっかり忘れたが、築地近くの目立たない旅館に行く。六畳の部屋で、雷ちゃんは、火鉢の灰を所在なく、突っついている。

午前一時すぎまで、そこにいた記憶がある。その間、雷ちゃんは正座しっぱなしだ。私はすぐに足を投げだしてしまった。

不意にあらたまって、雷ちゃんいった。「いずれ、正式にお願いにいくつもりやったのだけど」

現代劇を書いてくれないか、という頼みであった。そいつが歩いていったあとにはなにやら血の匂いのこもった風が、すっと吹きぬけるような、病んだ現代社会の瓦礫の中から生れでてきた青年を、どうしても演じてみたいのだと、氏は熱心に語った。

異存はなかった。創作意欲をかきたてられた。私が、構想をねる、ということになった。しかし、目先の仕事に追いまくられ、気にはかけていたのだが、私は、雷ちゃんの仕事に、本格的にとりくまなかった。

翌年の春先、雷ちゃんは不意に私の家に、訪ねてきた。氏は、少しは構想がまとまったかと期待していたようだが、なんの用意もない私は、雑談で、ごま化す以外、方法はなかった。

四月、大映の70ミリ映画「秦・始皇帝」を市川崑が演出することにきまり、私はそのシナリオを故和田夏十さん(市川夫人)と書くことになって、打合せのため、京都へ行く。市川氏は、京都のスタジオで、雷蔵主演の「破戒」を撮っていたのである。(「始皇帝」は市川氏のイメージと、当時の大映社長の考えが異なり、別のスタッフで映画化された。)

京都に着いた翌晩、雷ちゃんは市川夫妻と私を、嵐山の「吉兆」に招待してくれた。

宴が進むうち、ふいに雷ちゃんは、「少しは、進みましたか?」と、私にきいた。困って、アイマイな微笑を浮かべている私から目をそらすと、氏は、一寸も考えてくれないんですよ、冷たいんだなあ、市川監督に、訴えた。

「いや、そんなもんなんや、ライターちゅうもんは」と市川氏は半ば冗談めかして、「頼まれれば、一応OKするが、シメ切がなかったり、製作スケジュールにのっていない仕事は、みんな、あとまわしにするんやな」

雷ちゃんの顔に、信じきっていた人間に、突然裏切られたような、失望の影が、一瞬走って、消えた。

その月の終り、市川雷蔵氏は、結婚した。披露宴に招かれた私は、心苦しくて、祝辞も耳に入らず、料理の味もよく分らなかった。

そのうちに、映画界は不況の嵐となり、スタアのイメージをぶちこわすような、雷ちゃんの企画が、実現する可能性は、ゼロになってしまっていた。

1969年七月、雷ちゃんは、三十七才の若さで亡くなった。私は今も尚、あの時、つまらない仕事はすべて断って、何故あのシナリオにうちこまなかったのだろうかと、後悔の苦い感触が胸一杯にひろがるのである。(シナリオ2002年8月号「人間万華鏡・第7回 市川雷蔵氏(2)」より)