その月の二十七日、市川雷蔵氏は結婚した。ホテル・ニュージャパンの披露宴へ、招かれて出席した私は、なにか心苦しくて、祝辞も耳に入らず、次々と運ばれる料理の味もよく分らなかった。

以後、雷ちゃんとは、あまり会っていない。大映のエースとして、氏はきわめて多忙で、わずかな暇があれば、新婚早々の奥さんと甘い時間をすごしていたのだろう。

そのうちに、急速に映画界は不況の嵐に襲われ、雷蔵のイメージをぶちこわすような犯罪者タイプの現代青年といった企画が、採用される可能性は、ゼロになってしまった。

64年の正月の日生劇場へ、雷ちゃんから切符を送ってもらって、武智演出による氏の舞台を、私は観にいったのだが、市川雷蔵の富樫がまことに素晴しく、私は感動した。同時に、あのとき、つまらない仕事はすべて断って、何故、氏の現代劇のシナリオにうちこまなかったのだろうかと、後悔の苦い感触が胸いっぱいにひろがっていくのを覚えていた。その苦い味は、今もなお、私の心の奥底に残っているのである。

犯罪者タイプの現代青年を演じたいという希望のほかに、もう一つ、氏は、少年時代のあこがれだった海軍兵学校の、清潔で雄々しい海軍軍人をやりたい望みをもっていたそうである。

私は知らなかったが、雷ちゃんは数年前から藤井浩明氏に、氏のかなり綿密なプランを何度も語っていたという。

1969年のはじめ、その企画はようやく具体化し、製作の準備に入った。癌だということに気がついていなかった藤井氏は、五月下旬には退院できるという医師の気やすめの言葉を信用し、度々、病院へ行っては、雷ちゃんと打合せをおこなっていた。無論、雷ちゃんも自分の病気の正体を知らされていない。これだけは、どうしてもやりたいんや、とやつれた顔の、おちくぼんだ目をギラギラ光らせながら、雷ちゃんは藤井氏に熱っぽくいった。

だが、五月になっても、退院の日どりをきくと、医師は曖昧ににごすばかりで、藤井氏は当惑した。「ああ、海軍」という題名のその作品は、七月のお盆に、どうしても封切らなければならなかった。

ギリギリまで待った末、藤井氏は、ついに決断をしたのである。市川雷蔵をあきらめ、中村吉右衛門にふりかえた。無論、雷ちゃんには、極秘だったのだが、それはたちまちばれてしまった。雷ちゃんは、家から朝、毎、読の三紙をはじめ、数種類のスポーツ紙を運ばせていたのだった。スポーツ紙の芸能欄のトップに、「ああ、海軍」の主役を吉右衛門が演じるという記事が、でかでかとのっていて、雷ちゃんは、それを読んでしまったのである。

次に藤井氏が病院を訪れたとき、雷ちゃんは、「ああ、海軍」に関して、一言もふれようとしなかったという。これは、いけないと藤井氏は思ったけれど、すべてはあとの祭であった。雷ちゃんは、つとめて明るい態度を装い、映画と無関係な、政治や風俗の話を、やつぎ早に藤井氏に語りかけてきたそうである。

結局、市川雷蔵は、やりたかった犯罪者タイプの現代青年、清澄で凛々しい海軍軍人のいずれをも演じることなく、三十七年のみじかい生涯をとじたのだった。

69年上半期の大映作品は、興行的に、不振をきわめていた。「鬼のすむ館」とか、「千羽鶴」とかいった大作をはじめとして、ほとんどの映画が、興行的な成功をおさめることができなかった。

七月封切りの「ああ、海軍」は、正月以来の大当りであった。

「ああ、海軍」に、多勢の観客がつめかけていることも知らず、市川雷蔵は、その封切りのまっ最中に死んだ。

1969年7月17日未明であった。