わが失恋の記

=結婚とゴシップの真相を訴えたい=

**ボクの結婚についてのゴシップが乱れ飛んでいます。このままボクが黙っていれば、ゴシップで迷惑する女性も大ぜい出てきそうです。ボクはあえて筆をとりました。若尾ちゃんを、玉緒ちゃんをボクはどう思っているか・・・。そしてボクの心に秘めた「あの女性」のことも、今初めてお話ししましょう。それは、はからずもボクの失恋の告白でもありますが・・・。《雷蔵》**

三月十五日の結婚説

きょうもまた洛西は、しぐれ空・・・。晴れるかと見れば小雨がぱらつき、雨かと見上げれば、京の空はどこまでも青い。それはまるで、この二、三日来の私の気持を表わしているかのように、心もとない初冬の空なのである。

−市川雷蔵婚約を発表!三月十五日若尾文子と挙式・・・。

そんなニュースを追って、はるばる東京から数多くの新聞社や週刊誌のかたがたが、カメラマン同道でワッとスタジオへ押しかけて来られた時、私は正直いって、またか・・・と苦笑したものだった。事実、この種のウワサ話は、四、五年前から常に私の身辺に起こり、そして淡雪のように消え去っていたからだ。金田一敦子さんとのこと、・・・中村玉緒ちゃんとのこと・・・そして、今また若尾ちゃんとのこと・・・。

私自身、バカバカしくて、そんなウワサの一つ一つに、弁解する気持はさらにないが、相手にされる女優さんこそいい迷惑と同情せずにはいられない。

−男の子のおもちゃを取り上げて、得意然としていた童顔の日の玉緒ちゃん・・・。そんな玉緒ちゃんと幼い日から兄妹同様に育って来た私は、彼女を妹のように愛し、よき共演者としておつきあいこそすれ、きょうの日まで、私はいまだかって結婚を対象として彼女を見たことはない。まして、最近の玉緒ちゃんはグンと演技力を身につけて、主演女優賞すらねらっているガメツいおなごに変ったのだから、ロマンスなんで考えることもできないだろう。

金田一敦子さんにしてもそうだ。あることないこと書き立てて、一部のジャーナリストは、あすにでも結婚するような口ぶりだったが・・・。今では、彼女もきっぱりこの社会から身をひいて、新しい家庭づくりに専念していると聞いて、心から幸せを願わずにはいられない。

そして、またまた若尾ちゃんとのことである。彼女とのウワサは、なにも、きのうきょう始まったことではないにしても、いかにも真実性のあるような、「三月十五日挙式」のニュースには、本人である私すら、ア然として、あいた口がしまらない思いだった。記者のかたがたが、その裏づけとして、皆さん同じ差出人の投書を持って来られたが、ウワサの出所はこの一通の手紙だった。

差出人は「京都市右京区吉田に住む、養父寿海の親せきにあたる田辺和子・・・」と名のりをあげてはいるが、私には全然その名に記憶もなく、まして、そんな町名は私の住む右京区にあるはずがない。だれかのいたずらには違いないのだろうが、根も葉もないデマは困る。私は昔から、隠しだてのきらいな性分だ。相手が決まれば、あすにでも発表する気持でいる。

お説のとおり、私は若尾ちゃんを愛してこそおれ、きらいなことは少しもない。同じ会社の役者として、良き共演者として、年じゅう顔を合わせていれば、愛情をいだかないほうが不思議である。だが、ここでお断わりしておきたいのは、仕事を通しての愛情が、そのまま結婚に結びつくかどうか、ということだ。私は以前にも、若尾ちゃんとのウワサを流されたことがある。その時にも、私ははっきりこう言ったことを覚えている。

「妻としての条件のなかに、女優という座にある女性は対象にならない・・・。という意味は、なにも女優がいけないというのではなくて、私の場合、どうしても家庭に納まってもらわなくては困る。そのためにも、特殊な生活環境におかれた女優さんを、家庭に引き入れるのはむずかしいのではないか・・・」

と、これはあくまでも、私個人の持論だが、だからといって、私は「女優さんとは結婚しない」とは断言していない。男と女の愛情は、筆舌に尽くしがたい微妙なものがあるだけに、いつ、どこで、どんなチャンスに結ばれるかもしれないからだ。

私の結婚の意志は、だれよりも私自身が知っているはずである。二十九歳−私の青春には、まだまだ夢がある。そして、私の過去にも、いままでだれにも話したことのない、美しい思い出が秘められているのである。恋というには、あまりにも悲しい結末ではあったが・・・。私を愛し、私を兄としたいながら、なお姉のような愛情で私をリードし、母のような慈悲で私を抱き締めてくれた彼女・・・。

私はここに、改めて、いっさいのウワサ話を否定しながら、私の心の中に生きた、ただ一人の女性のことについて、筆をとりたいと思う。