姉はパリへお嫁入り

−おにいさま!

こんな呼びかけをお許しください。突然のお手紙で、いきなりこんな呼び方をする失礼な子を、きっとあなたは軽蔑なさるでしょうね。でも、お怒りにならずに、もう少しだけ読んでくださいね。だって、これには深いわけがあるのですもの・・・。

私には一人の兄がありました。その兄を今度の戦争で失ってしまったのです。年ごとにその悲しみは薄れてはゆきますが、事あるごとに、死んだ人の歳を数える愚かさを、どうすることもできませんでした。でも、もうその必要がなくなったのです。それは吉哉さま、(注=市川雷蔵の本名は太田吉哉)あなたにお会いできたからです。

私たち三姉妹が、溝口監督の「新平家物語」であなたのお姿を初めて見たとき、三人そろって言葉も出ないほどの感動に震えたものでした。映画のすばらしさもありました。それ以上に、亡き兄に生き写しの市川雷蔵という俳優の存在が、異常なショックだったのです。私たちはボウ然と顔を見合わせてタメ息をつくばかり。姉たちの顔が、いまにも泣き出しそうにゆがんで見えたのです。

どう説明したらわかっていただけるのかしら、思うことの筆に尽くせぬのが、もどかしくてなりません。私たちはそれ以来、あなたの出演する映画は必ず見てまいりました。スクリーンの上には、いつも優しかった私たちの「おにいさま」が生きています。私たちの心にも、いつもあなたが生きています。だから、私たち姉妹の間では、あなたは「お兄さま」なのです。

おにいさま。きょう初めて手紙を差し上げたのは、上の姉からのお願いがあるからですの。姉は半月後に結婚してフランスへ渡ります。何年後に帰国できるか、これから長い間、日本を離れなければならない姉の心中、私にはよくわかる気がします。

姉は日本の思い出に、もう一度京都を見ておきたいと言います。京都へまいりましたら、鳴滝のお宅(注=雷蔵の住所は京都市右京区鳴滝音戸山四の八八)まで、足を伸ばすつもりです。そして、おにいさまのところへ押しかけます。姉の気持をくんで会ってやっていただきたいのです。

もし門前ばらいなどなさったら、このチビちゃんにも覚悟があります。会えるまで玄関へ座りこみます。だって、おにいさまに一度も会わずに日本を去って行くなんて、それではあまりに可哀そうです。おにいさまにも、姉の海外移住を激励してあげる義務があると思うのですもの・・(後略)−(原文のまま)−

あまり達筆とはいえないが、いかにも女性らしい細いペン書きの手紙だった。

だが、私はこの手紙を読み終えても、ただのファンレターとして、そのまま、文箱のなかにしまい忘れてしまった。毎日、山と積まれるファンレターの内容を、一つ一つ覚えていて、感傷に浸るほど、私の体には暇がなかったのだ。