努力型雷ちゃん

 小学校のころから作文というのがにがてな僕、やがて中学、高校と進んだころ、やっと文章で語らなくてもすませるカメラを手にしたときはほっとした。それから十数年、ずっとカメラと一緒だ。それが今雷ちゃんを撮っている。そしてこれから雷ちゃんについて文字を並べる。

 雷ちゃん、一口にいえば天才型と努力型に分けた場合、後者だと思う。僕が初めてあったのは「新平家物語」のときで、雑誌の取材で京都に来たのだが、当時時代劇というものには余り興味がなく、実の所、ほうこんな俳優さんがいるのかと思った程度だった。

 その後半年もたたぬうちに僕は大映京都のスチールマンになった。初めのころはもっぱら二本立用の小作品ばかり撮っていたので、仕事の上では勿論、普段も別にこれといった話もしなかった。やがて、大作の別班をときどきやり、やっと現場で会えるようになったが、こちらの意志が弱いせいもあって、思うような作品も出来ず思案していたとき「炎上」をやることになった。

 本格的に一本、雷ちゃんと仕事をしたことはないし、それに初めての現代劇出演、僕は時代劇でのあの素晴しい扮装のイメージが滲み込みかけていたときなので、実のところ不安であった。しかし、その不安も話し合っているうちに、またたくまに吹き飛んでしまった。今までの雷蔵の「何々」というものではない、「炎上」の主人公溝口吾市として勝負する決意がはっきり伺えたからだ。僕もこの作品だけは菊人形的スチール(通俗的な内容に乏しい顔の並べの写真)は撮るまい、あくまで市川監督のいう、純粋なるが故に闘わずして滅んでいった一人の青年の苦悩を、リアルに描くべきだと思った。

 現場においては、従来の撮影方法とは違い、テスト中に何回もシャッターを切り、それでも満足いかぬときは、本番終了後、もう一度そのカットの芝居をしてもらった。一目でつかめないときは、何度となく繰返してやった。その間における雷ちゃんの態度は実に立派で、協力的なことは勿論、当方の手ぬるいところには遠慮なく批判してくれた。クランク・アップしたとき、こんなにも雷ちゃんには芯があったのかと痛切に感じた。

 廃油さんというものは特別の人を除いて、大変に愛想がよい。雷ちゃんは正直いって、この作品を撮るまでは余りとっつきのよい方ではなかった。どうも初めの印象のよいものほど中味はものたらないようだ。雷ちゃんの場合、かめばかむほど深味が出てくる。それはその後「弁天小僧」から「濡れ髪三度笠」に至るまで大体一緒に仕事してきてわかったことである。

  

 作品に入ると、先ず僕の仕事である宣伝スチールを行う。これはその作品のトップバッターであるから、作品の内容を売ることはむろん、より宣伝的な効果をねらわなければならない。どちらかというと、まだまだスチールに対する一般の考え方が弱く、のけものにされがちだが、雷ちゃんは大変熱心で積極的であるからありがたい。必ず撮影前に関係者と打合わせするが、つねに作品内容をよく理解した新しさのある意見を提供する。写真というものは、撮る方ばかりが先走っても、しょせん相手あって成り立つもの、呼吸があって初めてよい作品が出来る。しかしいつも一緒だと知らぬうちにマンネリズムに落ちる危険があるので、つねに討論をかわすことも忘れない。

 扨、演技する雷ちゃん(スチールを含む)これも又、立派で決して人のまねをしない。自分自身をよく知り、碑文で出来得る範囲の中でつねに冒険しながら、一歩一歩前進し、自己のスタイルを作り上げていく。例えば、扮装にしても一作ごとに何か工夫のあとがみられる。又、他の俳優さんに自分のやっていることを押し付けることをしない。それは個々の顔が一人一人異なる如く、演技においても千差万別で、演技者のプライドというものを尊重している。若い人には特に親切で、その人が伸び伸びと演技するよう仕向ける。しかし、一方レッテルばかり気にして、やる気があるのかないのかわからないような人にはかなり痛烈に批判をしゅる。これらのことは、何よりも雷ちゃんの人柄が伺える。僕は大変によいことだと思う。

 ねがわくば、今後も大いにこの若き情熱を保ちつづけて、前進していただきたい。毒舌大歓迎!!