僕と水泳

僕が大阪の天王寺中学(現在高校)に入って最初の夏、とうとう僕の最も恐れていたことがやってきました。というのは新入生は夏季休暇を阪和海岸の羽衣水泳場で送らねばならないことになったのです。丁度太平洋戦争が酣で、海国日本が喧しく叫ばれてた時でした。泳げないものは一人もなくしようと体育の先生と水泳部の上級生が張切って作ったプランだったのです。

僕の家は毎年夏になると三重県の津に海水浴をかねて避暑に行くのがならわしで、僕もほんの小さな時から両親と一緒に海には親しんでおり、父は泳がそうと思って一生懸命教えてくれたのですが、僕は水と合い性が悪いのでしょうか、砂渚でバシャバシャ水遊びをやる程度で、どうしても水泳は覚えられませんでした。

ですから中学に入っても、水泳部など犬に喰われてしまえとこそ思え、入部しようなどとはさらさら思わなかったのですが、一年生全員参加とあれば仕方がありません。先ず能力テストです。

プールの後ろに立ってドブンと後から押し落された後は、犬かきさえできない立派さで見事金ヅチ組の最右翼に編入されました。羽衣行きの電車の中の私のユーウツな気持を想像してください。仮病を使って家に逃げて帰ろうかと何度思ったか知れません。

ところが着いたその夜、水泳部の上級生の一人松本さんが、僕のところへやってきました。そしてその日から実に親切で熱心な個人的水泳教授が始まったのです。どうして僕だけにこのように教えてくれたのかわかりませんが、僕はこの“よく肥ったおとなしい上級生”松本さんの出現に、「よし泳げるようになろう」と決心しました。そしてその夏休みの終り近く、平泳ぎでやっと十米程泳げた時の二人の喜びようといったら、ほんとうにたとえようもありません。そして思い切って一粁の検定試験を受けることにしました。松本さんの船上からの激励の声のお蔭で、帰りの車中の僕の頭上にいただいた白帽には、黒線が一本誇らしげに輝いていました。

その後、夏が来る度にクリクリした眼が印象的だった松本さんの風貌を思い出していましたが、この前中学の同窓会で聞いたら、松本さんは若い内に胸の病気で亡くなったそうです。教えるものと教えられるものとの間に通う精神の機微を初めて僕に啓示してくれたのは松本さんです。