市川雷蔵の不思議な魅力

 今回は古武術と縁が深い日本の芸能、特に芝居について考えたい。昭和の映画黄金期に活躍した市川雷蔵は、表情の多様さ、複雑さ、深さなどで他の誰にも再現不可能といわれる「不思議な魅力」をのこした。後世の私が分析するとき、雷蔵の演技は古武術の理と重ねてみると分かりやすく感じる。

 演技派の美男とされる彼だが、意外にその芸は「顔」のみに依存していない。顔ばかりで演じると、そこが突出し、暑苦しく見えたり、ストレートすぎたりする。雷蔵はむしろ、顔の向きを操る首、胴体のさばき方、足の運び、手の配置、指先の具合など、全身の総合的な有りようによって表情を出した。武術も全身の小さな力を合成する。まんべんなく、意外な場所の力や変化まで導入し切ることが大事だ。

 五体の変化で感情を示すといえば能が典型だろう。人形浄瑠璃なども顔の動きは限られているが、一種の可憐さや妖艶さ、はかなさをもって十二分に心が伝わる。能や歌舞伎の型は武術と共通し、能では面をかぶるのは、剣術の稽古で手の働きを制限するのに似ている。最も力が入りやすい個所を抑制することで全身の潜在的力を呼び覚ますのだ。

 雷蔵は、例えば苦悩や葛藤をどう演じたか。私の見方では、頭と腹のずれた意識を拮抗させ、胸中は戸惑い足元は揺らぎ、それらを合成したもののほんの一部を面上ににじませている。侍などの役柄は特に、心の乱れを表すまいという神経が恒常的に働くはずだからこの抑制が効果的だ。

 こうした異質な演技の体内での同時実行、その総合的な表れこそが、単純な喜怒哀楽を超えた「不思議な魅力」を生むのだと、私は考える。逆説的だが、全身を使うほどの顔自体の表情も深まるようだ。武術も演技も五体の働きを合成すれば、非常に多様で、誰にもまねできず対応もできない芸が出現する。ただ、その理と感覚を見極めるなら、雷蔵タイプの演技も、絶対に再現不可能とは言い切れないだろう。

(心体観測 武術の眼F 朝日新聞日曜版be 08/19/07)