心の兄貴・雷蔵さん

兄弟のように親しくつき合ってもらった約十年間、思い出はいろいろあるが、私が知っていたのは、いつも素顔の雷蔵さんだった。

その二、三を今思い出すと、私がまだ平幕時代、雷蔵さんが砂かぶりで見ていてくれた。土俵の相手はベテランの大晃関で、私はいきなり痛烈な張り手をくらい、雷蔵さんの前に投げ飛ばされた。あとで「折角兄貴が見に来てくれたのに・・・・」と、不甲斐なさに頭を下げると、雷蔵さんは「いいじゃないか、気にするなよ」と、あのやさしい目で笑っていた。その表情は「おれの前だからといってリキむやつがあるか・・・・」というように私には感じられた。

その場所だったと思う、おふくろが北海道から大阪場所を見物にやってきた。そのとき雷蔵さんは、忙しい身体にもかかわらず「キミは相撲を一生懸命にとればいい。お母さんはこのボクが引受けたよ」といって、おふくろを京都、奈良の名所に案内してくれた。

私が結婚したとき、「将来、自分の部屋を持ったら役に立つだろうから・・・・」と、沢山の食器をお祝いに頂戴した。ひとつひとつにそこまで心をこめてくれる兄貴に、私は何度この胸が熱くなったかしれない。

結婚した翌年の正月場所三日目に、痛めていた肘の故障が再発して休場。結婚間もないというのでマスコミの風当たりが強かったときも、雷蔵さんは私たち夫婦に「完全な身体にもどるまで何場所休んだっていいじゃないか、それがほんとのプロだよ」と励ましてくれた。

最初の入院を終えて、元気そうに退院された雷蔵さんは、ちょうど完成した私の新居へ、身重だった奥さんといっしょに来てくれた。そのとき私の家内が、お客様だからと、白米のご飯を炊いたが、私は「わが家はいつも麦飯なんだ、雷蔵兄貴を他人行儀にもてなすのはおかしいじゃないか」と、こだわった。ところが雷蔵さんは「ぼくは白米のご飯が好きなんだ」と、炊きかえを許さない。このときばかりは、私が逆らってもむだで、とうとう白いご飯をみんなで食べるはめになった。もちろん、私の家内をかばってのことで、兄貴はいつもそういう人だった。

私のおふくろも女房も、雷蔵さんには大へん親しみと感謝の気持ちを忘れなかった。訃報を耳にしたのは、ちょうど名古屋場所の最中で、ついに葬儀にも参列ができず、納骨の前に夫婦で太田家の仏前を訪れ、涙をこらえてお別れをした。そのとき、いつか私の新居に来てくれた奥さんのお腹にいた末のお嬢さんが、私にだっこをせがむの姿がいじらしく、今もまだ瞼の裏にやきついている。このとき、私も童心にかえり、プラモデルのお人形を一生懸命に組み立てたが、もし、これが私でなく、雷蔵兄貴だったら、子供たちはどんなに喜ぶことだろうかと、胸が痛かった。

雷蔵さん、あなたはいつも、私にとってかけがえのない「心の兄貴」だった。私が生きている限り、雷蔵さんは、この胸の中に「私の誇り」として生きていてくれると信じています。(追悼レコードより)