映画にほれて

聞き書き 田中徳三監督

 大映京都撮影所に1947年11月、助監督として採用され、初出勤した日の翌日、正月作品を撮影している丸根賛太郎監督につきました。何もわからないわけですから、助監督見習みたいなものです。作品は『博多どんたく』で、阪東妻三郎が出演していたと思います。

 丸根監督が撮った代表作、『狐の呉れた赤ん坊』を見ていて、現場で本人に会い、「この人があの丸根さんか」と思いました。でも、それも一瞬のことで感慨にふける間もなく、とにかく走り回っていたことしか覚えていません。照明部のベテランに「助監督は走ってなんぼや」と言われましたが、本当にその通りでした。

 映画は先に封切り日を決めてしまい、逆算して撮影に入ります。主役級の俳優の予定は動かせず、編集作業もあるので、どんなことがあっても日程内に撮影を終えてしまわなければなりません。

 正月に間に合わすためのちょうど追い込みの時期で、撮影所中が騒然としていました。「田中を呼んでこい」。監督に命じられます。どこで何をしている人か、まったくわかりません。聞き返すことはできません。先輩も教えてくれません。とにかくだれだかわからない「田中さん」を探して、撮影セットから衣裳、小道具、俳優の控室と駆け回ります。ようやく本人にたどりついて、「監督が呼んでいる」と知らせると「オマエは誰や」としかられます。初日からそんな状態でした。

 話は飛びますが、助監督時代にいろいろな監督につきましたが、丸根監督に限らず、直接教えてもらったことはひと言もありません。「この場面の演出はこうだ」「こういう風に撮影するんだ」。アドバイスはいっさいしてくれません。自分が監督になってよくわかりました。人にものを教えるのは、監督の商売ではないんです。

 監督ごとに考えも、思い入れもテーマも違う。まねをしてもしょうがないんです。どうやって映画を作るのか間近に見ながら、監督はこういう演出をしたけれど、自分だったらどういうコンテを描き、どう撮るか。それを考えているのが助監督の仕事なんです。

 監督の使い走りをしているうちに、大学生時代の知識なんて、撮影所に入ったら役に立たない、と痛感しました。照明さん、大道具さん、小道具さん。みな専門家で、すぐれた職人であることがすぐにわかりました。専門のことについて、大学の先生よりもはるかに深い知識をもっています。演出論なんかをかじり、映画青年を自称していたことが恥ずかしくなりました。

 例えば衣裳さんです。女性の衣裳の柄、着付けの形、まげなどは、戦国、安土桃山、江戸の前期・中期・後期、明治と、時代ごとにすべて違います。それをすべて把握している生き字引がいました。無声映画時代から、先輩にしごかれながら身につけてきているんです。受け持つ分野は狭くても、みなその道のプロばかりです。生半可な知識では、とてもたちうちできませんでした。