市川雷蔵君の思い出

昭和19年の四月。旧制大阪府立天王寺中学校に入学しました。あたかも太平洋戦争も敗色濃い終末に近づきつつありました。どんな友達ができて、どんな生徒と並ぶのかと、興味をもって見詰めていましたら、色白な綺麗な少年が机を並べました。「君の名は・・・・」と問うと、竹内嘉男とのことで、互いに名乗り合いました。これが私と彼とのつながりとなりました。同じ頭文字の“た”が縁の始まり。一年一組に編入されて、ここに二十余年の交誼の始まりとなりました。

秀麗な容貌と、色白なぽっちゃりとした顔形は、同級生の誰彼からも“お嬢さん”と呼ばれたごとく、まことに柔軟な感じ、優しい姿でありながら、心の奥底には強く、そうして不屈なものが抱かれている印象を深くうけました。

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当時天王寺中学校は大阪市においては北に北野中学校、南にこの天王寺中学校が名門校としての双璧と称されておりました。田中栄一郎校長は名校長としての名声高く、毎日の朝礼にはよく「喧嘩をしても負けるな」あるいは「男らしく堂々と闘え」とか、男子としての立派な性格を知らず知らずの間につちかわれていたようであります。冬季厳寒の候でも、上半身裸でいわゆる“天中体操”をやり、毛の下着、外套、手袋、ズボンのポケット禁止など、質実剛健の気風養成に努められました。

その中にあって嘉男君は級中、特に目立つことのない真面目な好少年でありました。その頃、級中に希有な餓鬼大将がいて全級を睥睨し、皆いじめられ、ことに彼などは一番にその槍玉に上がりそうであったのですが、一向にいじめられなかったのは今でも不思議に思うことの一つです。おそらく、彼には何かの威圧感のある睨みのきくものがあったのではないでしょうか。

その頃音楽の先生からいつも声がよいと褒められていました。一緒に信貴山麓の友人の所へ昆虫採集に行ったこと、剣道の時間に正式ではなしで、チャンバラの真似をして、見得をきった彼の姿は今でも彷彿として浮かびます。

また、その頃禁止されていた映画館(玉造だったと思います)へ、近所の友人の家に帽子と鞄を預けて坊主頭で大冒険をしたこと、彼の家に(その当時上六の近鉄百貨店の近所でした)遊びに行き、障子紙の代りに、浄瑠璃や小唄の紙が貼られていたことなどは今も鮮やかに記憶に残っています。しかし彼の父君が梨園の人であったということは、その頃はまったく知りませんでした。

やがて三年生の後半頃からか、彼が歌舞伎の稽古に入ったという噂を耳にしました。四年生に入った頃から学校も欠席勝ちになり、父祖の職業をつぐようになったと伝えられました。その天中時代は三、四年、まことに短かったとも思えますが、お互いに何のかけひきもなく、真実の姿を見せたり、見せられたりする、少年時代の爾汝の交誼は、忘れることのできない思い出です。

昭和四十一年より三年間私が西独ザール大学の付属病院の外科に助手として勤務中、度々手紙をもらい、ぜひ君のいる間にライン河畔やハイデルベルグの古城を歩きたいと書いてありましたが、遂にその機会を得られませんでした。私が帰朝後祝いがてらに一緒にドイツの話など奥さんともども北浜の吉兆で会食した四十三年末が最後となりました。病気と聞き、東京へ電話して見舞いに行き、顔が見たい、慰めて力になりたいと奥さんに言いますと、病床よりももう少し元気になってからとのこと、彼のやつれた姿を見せたくないという役者根性に徹した頑張りの姿がよくわかる気持がし、医者でありながら友人の病をなおすことなく手をこまねいていた残念さに身を切られるような気がして胸が一杯になり、泣けてきて仕方がありませんでした。( 筆者・医師・天王寺中学同窓生 )