『新平家物語』の清冽、『月形半平太』の颯爽、『薄桜記』の哀切、『ぼんち』の洒脱、『歌行燈』の色気、『斬る』の気魄、『眠狂四郎』の虚無、『ある殺し屋』の孤独・・・様々なイメージをスクリーンに定着させた市川雷蔵が37歳で夭折(1969年7月17日午前8時20分)して21年。

 しかし、時間の流れに逆らうかのように、雷蔵追慕の声は高まるばかりだ。いったい、誰がどんな思いで過去のスターの幻影を追い求めているのだろうか。スターらしい華やぎと市井人の堅実をあわせ持った市川雷蔵の魅力とは・・・。

 

 

 

キネマ旬報90年12月上旬号より

 

 今からもう八年ばかり前のこと、雑誌「小説現代」(編集部註 「市川雷蔵・かげろうの死」社会思想社)から小説の執筆を依頼してきた。私は雷蔵を書こうと思った。実名で登場させ、しかし伝記とか評伝ではなく、あくまで私の主観的なイメージの中の雷蔵を小説にしようと思ったのだ。取材費をもらい、とにかく彼が人生の多くを過ごした京都へ向かった。私がすぐに訪れた所は、京都四条通りを東に突き当たった八坂神社である。

 その石段を昇り、赤い門をくぐるとすぐ、左右に一対の石燈篭がある。左には「三代・市川九団次・亀崎はな」、右には「三代・市川寿海・八代市川雷蔵」と刻みこまれた文字が見える。これは雷蔵が最初の養父九団次の家から寿海の養子に迎えられた時、一家で八坂神社に献納したものである。今ここに名前を刻みこまれた四人は、誰ひとりとしてこの世にいない。

 

*八坂神社石段上がってすぐの左右にある燈篭は、雷蔵を襲名し、寿海の養子となった記念の奉納灯篭と田山氏は思われたようだが、裏面にある「昭和二十九年一月二十一日」は、雷蔵を慈しみ育んでくれた母・はなの三回忌。雷蔵は育ての父・九團次、養父・寿海の三人で、はなの名を加えた四人の名で燈篭を奉納したのである。

(81年5月号)