『新平家物語』の清冽、『月形半平太』の颯爽、『薄桜記』の哀切、『ぼんち』の洒脱、『歌行燈』の色気、『斬る』の気魄、『眠狂四郎』の虚無、『ある殺し屋』の孤独・・・様々なイメージをスクリーンに定着させた市川雷蔵が37歳で夭折(1969年7月17日午前8時20分)して21年。

 しかし、時間の流れに逆らうかのように、雷蔵追慕の声は高まるばかりだ。いったい、誰がどんな思いで過去のスターの幻影を追い求めているのだろうか。スターらしい華やぎと市井人の堅実をあわせ持った市川雷蔵の魅力とは・・・。

 

 

 

キネマ旬報90年12月上旬号より

 

 私はまた元大映企画者の奥田久司(故人)に案内され、洛西鳴滝の雷蔵の住んだ家も見に行った。家はまだ当時のままに残っており、表札には「京都市右京区鳴滝音戸山町4-9」とあり、現在では別の名前が出ているが、当時はここに「市川雷蔵」という名が記されていた筈である。

 三階建ての家の背後には緑の樹木の茂った山があり、その山がそのまま庭つづきになっていた。白い土蔵もあり、どこか古い京都を偲ばせる格調あるたたずまいである。当時ここを訪れた勝新は「なにか湿っぽい苔みたいな匂いがする。この家は身体に悪いのじゃないかな、と思った」と言う。その勝新の住んでいた家は嵐山にあり、今は“嵯峨の里”という民宿になっており、開放的な家だった。二人のスターの性格の違いは住まいにもはっきり現れていた。

 雷蔵は柴田錬三郎原作の「眠狂四郎」を演ずることに執念を燃やしていた。これは彼に打ってつけの役だった。封建時代に、転びバテレンと武士の娘との間に生まれたという暗い出生を負いながら、虚無と孤独の影をひいて生きる剣士、その着流し姿には水もしたたる色気があり、まるでそれは彼自身の姿でもあった。しかも皮肉なことに、雷蔵の肉体がむしばまれ始め、人生が死へ向かって突き進み出すにつれて、狂四郎の虚無感・孤独感は巧まずしてその全身からにじみ出てきた。

 だが昭和四十四年初頭の第十二作目『眠狂四郎悪女狩り』の撮影中、すでに癌細胞に犯された雷蔵は、やせ衰え、頬はこけ、眼の下にクマができ、凄惨な形相と化し、それが日陰者的な役のイメージを浮き立たせた。

 最後の入院をした時、彼は見舞いにきた親しい友人に「仕事がしたい」とうめくように言った。辛かったろう。だがやがて彼は誰にも会おうとしなくなった。彼は鏡に映る自分のやつれた顔を見ておいおい泣いていたのだという。昭和四十四年七月十七日午前八時二十分、京都が祇園祭でにぎわっている日に彼は死んだ。故人の遺言により、顔を蔽った白布も、全身に掛けられた布団も、ついに取り除かれることはなかった。雷蔵はこの世から消えた。

*田山力哉氏は97年3月23日、肝不全にて死去されました。享年66。