古いノレンの松竹、新しいジャンルを狙う東宝、画一的になりかかった大映、娯楽に徹した東映、大蔵色の強い新東宝

-各社カラーに今や転換期が来たのではないか-


永田規格版の悲劇 

 大映社長永田雅一は、率直にいって成上りものである。むかし日活の門衛をしているとき、藤村男爵の案内をして、その才気を認められたという噂話があるが、それから幾星霜、今では、政界のにくまれっ児河野一郎と手を組み、ソファーにふんぞりかえりながら総理のことを「岸クン」といえる現在の身分は、大した成上りぶりだ。

 しかし、単に映画界だけでなく、広く財界を見わたしても、こういう成り上った社長は、ほとんど例外なく、小独裁者である。彼らは、そこまでに漕ぎつけただけに、経営の細かい面にも眼を届かせ、一応近代ビジネスの形態をととのえる才能を持合せているが、この合理主義的精神は、その経営の頂点である社長の意識の中で、途端にワンマン的に変質する。 

 「オレがつくった会社だ」という自信がそこにある。つまりビジネスの近代化が、前近代的な店主気質でくいとめられるのである。永田雅一も、この例にもれるものではない。しかも困ったことには、このワンマン的合理主義という矛盾をかかえた体制が、とりあつかうのは、映画という生きた「もの」である。最近週刊誌で大宅荘一がとりあげた、同じ成り上りものの相互タクシーの社長のように、自動車などという既につくられた「もの」ではない。永田雅一は、映画をつくらねばならないのである。この体制の矛盾を、大映映画、従ってその時代劇は、雄弁に物語っている。

渡辺邦男作品『日蓮と蒙古大襲来』

 ここの時代劇は、大ヘン画一的である。もちろん、ときには、永田社長お声ががりで、『新平家物語』とか、『日蓮と蒙古大襲来』とかいう型やぶりの作品がでるが、それをのぞくとすべてが、こじんまりとまとまっている。これは企画面でいろいろ意欲的な作品をねらいながら、いつもそれを押し切る力がなく、結局ワンマン社長の独裁の下にあって、製作部門が、哀れなサラリーマン気質をまる出しにせざるをえないからだ。つまり、下の人々は、できるだけ、冒険と飛躍をさけ、極力欠点をなくすという消極的な態度にでる。この点、東映の時代劇は、プランにも、また映画の筋の上でも、ズイ分怪し気な、小屋者意識を徹底させた飛躍?をこころみ、しかもそれがかえってここの特色であり、魅力になっているのだが、ここにはそれがない。

 ここの時代劇の物語を読むと、企画審議会の席上で、提案者が、どこかの会社の設計案を説明する技師のように、戦々兢々として、つっこまれる点のないように、企画を説明している顔が浮んでくるのである。大映の時代劇は、理屈が多いといわれるが、この小理屈の多さは、結局この審議会hの席上の空気をそのまま伝えているのである。

 この小理屈の多さは、大映時代劇のひとつの宿命的性格である説明調を決定づける要素である。芸術?は、説明ではなく、表現である。浪花節にしても、名人と呼ばれる人は、この要諦をこころえていたし、落語にしても、同じである。故人神田伯山は、次郎長伝の名人だったが、その中年のころの表現の面白さは、晩年彼があまりに筋を通そうとする説明によって著しく後退した。ソツがないということは、議会では通るかもしれないが、芸術の世界では、全然通らない。ところが、説明調の大映時代劇は、あまりにソツがなさすぎる。これは、ある意味では、サラリーマンに現われた近代合理精神であるかもしれない。しかし、芸術の面では、はきちがえた合理主義でしかない。芸術は理屈ではないのだ。