残酷ブームを斬る

突破口


   

 僕は、他社の作品をあまり見ていないので、話を自社(大映)の、特に自分が出演した『忍びの者』『新選組始末記』に限らせていただくが、前者の拷問シーン(織田信長の命を狙った下忍が捕えられ、両耳をそがれる)にしろ、後者の、殺人の後のラブシーン(若い二人は死体の転がっている暗い部屋の中で激しく抱き合う)にしろ、思わず眼をおおいたくなったが、不必要には感じなかった。『忍びの者』は伊賀の忍者の世界を描いたもので、上忍・中忍・下忍とがっちりつながれた組織の中で非人間化された人間の悲惨な最期が各所に出てくる。それを残酷に表現すればする程、彼等の、人間復帰の願望が強烈な感動をもって観ている人の心に喰いこむのある。残酷性を強調することによって、作品のテーマをより明確にする、つまり、毒薬も使いようによっては良薬にかわるように、残酷な表現も適格な用い方をすれば、作品を生かすほとつの手段になるということである。

 又僕は、今度南条範夫先生原作の『第三の影武者』を井上梅次監督で撮ることになっている。この物語の時代は仙石の動乱期、ひとりの平凡な青年(彼は農民の子であった)が、侍 - 一国一城の主となることの野望を抱いて、影武者という職業につくのだが、現代でも、成人に達した男性ならば誰でも良い職につきたいと思うし、高い地位を得たいと望んでいるという点では同じだと思う。極端ないい方をすれば、出世欲が男の生きがいであり、その意味では、彼二宮杏之介はいわゆる一般的な具体的な男性像だろう。彼は、ある国の城主の三番目の影武者として百石で雇われ、およそ人間らしい扱いをされぬ儘命がけで働く、彼は人間でなく影である。彼は人間性を取り戻すために城主を殺すが、結局自分が城主に仕立てられ、気が狂ったとして一生牢に閉じ込められてしまう。彼の理想や野望は、ある力によってもろくも崩れ去り、最後に残ったのは人間性を抹殺された影の世界だった。

 こうして考えてくると、『忍びの者』にしろ、『新選組始末記』にしろ、『第三の影武者』にしろ実に残酷な話である。確かに、視覚に訴える残酷描写も多いが、それより主人公の置かれている立場の方に、より残酷なものが感じられる。これこそが本物の残酷であり、僕達が長い間見忘れていた、いや、あえて眼を閉じて見ようとしなかった世界であると思う。人間が生きていく事 - それ自体が残酷な事に違いない。「仕方がない」の一言で片付けてしまう日本人特有の物の考え方が、案外時代劇をからに閉じ込め、単なる夢物語にとどめていたのではないだろうか。

 そして、この残酷性も時代劇の古いからを打破るひとつの突破口に過ぎない。これを機会に僕達は、現代に於ける時代劇の位置について再認識する必要があろう。時代劇が現代の大衆に見離されつつある現在、僕達映画製作にたずさわる者は、大衆とともに苦しみ、大衆と共に歩むだけの謙虚さを持つべきであろう。これからの時代劇のために。