最近の太秦だより

 太秦を“東洋のハリウッド”という人がいる。僕は自分の目でハリウッドを見たわけではないので、その当否は断じかねるが、映画人の町という意味で“日本のハリウッド”程度の表現は許されると思う。

  歩いてもたかだか数分の三角点に三つの撮影所があって、数千の映画人が日夜を分たず現代のおとぎ話の製造に従事している。年間五百本になんなんとする日本映画の三分の一がここで生まれる。とりわけ時代劇と呼ばれるジャンルは、ごく少数の例外をのぞけば、すべてメイド・イン・ウズマサだ。

 映画産業の斜陽化が喧伝される昨今ではあるが、太秦はやはり映画の町であり、その意味では映画王国ハリウッドに次ぐ映画人の天国といえよう。

  その昔、平安遷都前、応仁天皇の時代に、百済国から帰化した豪族秦氏が、この地に居住した。秦氏とは融通王の子孫で、127県の民をひきいており、特に養蚕機織の業に長じていたという。雄略天皇の御代に、秦酒公なる人物が多量の絹を献上して御感にあずかり、姓を 禹都万佐(太秦)と賜った記録がある。これが現在の地名の起源とされている。また西暦622年に、秦川勝なる者が、京都最古の寺院たる広隆寺を建立した。これは聖徳太子の徳をしのんで建てられた日本で最も歴史の古い本格的な寺院建築で、別名を太秦寺という。このように、太秦の歴史的背景は秦氏一色にぬりこめられていた。

  そうした由緒ある地にちょっぴり芸術的な職人集団活動屋が住みついたことは、不思議といえば不思議な因縁だ。思うに、活動屋特有の合理主義で、立地条件の割に安い地代にそそのかされた結果であろう。そこになんらかの歴史的根拠があったかどうか、僕は知らない。

  無声映画からトーキーへ、そして現在のワイド映画時代へ。映画が時代の波に押され、活動屋が映画人と呼び改められても、太秦にしみこんだ活動屋魂は厳として存在する。秦氏一族が太秦という地名を残し、この地にきざみこんだ歴史を、ぬりかえるものがあるとすれば、それは活動屋魂に他なるまい。