今年の四月八日、日本最初の70ミリ映画「釈迦」がクランク・インした。これは単に、大映という一映画会社の社命をかけた大作の製作開始であるばかりでなく、日本映画界の未来を占う重大な意味を持っていた。 だから 僕は何のためらいも誇張もなくいえるのだが、これは太秦にとって一つの歴史的瞬間であった。とりわけ国産第一号というレッテルをはられた大じかけな夢の生産にいそしむ人たちには、仕事の工程が難しいだけ誇りも大きいものがあろう。 70ミリ映画といえば当面の映画界が未来を賭ける唯一の切り札なのだ。それがこの太秦で作られているのだ。日本のどこよりも早く太秦に未来がすでに始まったといっても過言ではあるまい。

  「釈迦」の撮影と平行して、太秦には新しい映画人種が集団的に発生した。その名もいかめしく“釈迦族”という。僕もこの映画に出演しているので、気がまえとしては“釈迦族”のつもりだが、本物の釈迦族に較べると外見が違う。炎天下のロケ続きで彼等の皮膚は異常に黒い。それも海や山のレジャーやけとちがって汗とほこりを肌に直接やきつけた黒さだから、本場のインド人と大差がない。俗に“釈迦やけ”と呼ばれる顔の真中に血走った目が光っている。これは連夜のセット撮影の疲労がもたらしたものだ。彼等は多分に夜行性動物的である。現に深夜の太秦には一見してそれとわかる人達が徘徊している。そして口を開けば“70ミリ”と“釈迦”がとび出す。

  今日まで数々の名作を生んできた太秦だが、これほど大勢の人が一丸となって、一つの作品にうちこんだ例はめったにあるまい。僕などは気ばかりあせっても、ロケが少ないために“釈迦やけ”にいたらず、肩身が狭いようなものである。いわば半釈迦族の気はずかしさだ。 この釈迦族は映画の完成する秋口まで名実ともに存在する。それまでに太秦を訪れる機会がある方は、是非いちど彼等の肌にやきついた70ミリ映画誕生の歴史をごらんになるとよい。京都へ来て太秦を訪れるほどの人なら多かれ少かれ映画に関心を持たれているはずである。

  日本映画史に新しい一頁を記し、その肌に生みの苦しみのシワをきざみ革命の戦果を輝く皮膚に象徴する人たち、そして昔の秦氏が永々ときずき上げた太秦の歴史を一年足らずで書きかえようという“映画の鬼”を見ることは、決して無駄にはならないと信じている。