若鹿のような二枚目

歌舞伎の世界というものは、ご承知のとおり、封建制の強いところです。そこでは、若い役者や、家柄や門閥のない下積みの役者たちには、なかなか主役やいい役が廻って来ないので、従って勉強をする機会にめぐまれません。

そこで、関西歌舞伎の若い、下っ端の役者たちが集って、「つくし会」という勉強の会をこしらえました。しかし、封建的な歌舞伎の世界では、こんな純真な研究会でも、偉い役者や会社からにらまれましたし、それに芝居をやることは、とてもお金がかかるので、こんな若い人たちには出来ないことでした。それで「つくし会」の人たちも、お金のかからない、脚本朗読の会をひそやかに持ったのでした。

それはたちか、昭和二十四年一月のことだったと覚えています。ひどくうすぐらくて手ぜまな八畳に六畳くらいの二階へ上って行くと、そこにはもう多勢の聴衆がつめかけていて、その中から脚本を読む声が聞えて来ました。私が行くと間もなく、「修善寺物語」の朗読がおわって、やがて「曽我の対面」の朗読が始まりました。

この芝居は、たいへんむつかしい古典劇で、一人前の役者がやってもうまくやれないくらいのものです。私はすこし馬鹿にした気持で、廊下の柱にもたれて聞き流していました。

そのうちに、曽我十郎の役を読む声が聞えて来ました。私はおもわず聞き耳を立てました。その音調はいぶし銀のように渋味があって、どっしり落着きのある中に、いかにも二枚目らしい、色気を含んでいるのでした。いわば天成の美声と申しましょうか、私は思わずそれに魅せられてほかの役の未熟なのも気にならず最後までその「曽我の対面」を聞き通したのでした。この十郎役を勤めた人が、今の市川雷蔵君だったのです。

雷蔵君はそのころはまだ市川莚蔵という名でした。彼のお父さんは、市川九団次という、敵役専門の老優で、従ってあまりパッとした存在ではありませんでした。そんな役者の子に、わずか十七かそこいらの年齢で十郎のようなむつかしい役が、立派に読める人がいるということは、何か私には奇蹟のように思えました。その朗読会は満員で、ろくに雷蔵君の顔も見えなかったのですが、莚蔵という名前は、その時以来強く私の脳裡にきざまれて印象づけられたのでした。