とにかく、そのまま惰性的に歌舞伎俳優になってしまった私だったが、もとより名門の出でもないまに、発憤して勉強するようなよい役がつく筈もなく、依然のらりくらりと最初の数年を送ってしまった。
昭和二十五年九月 大阪歌舞伎座で |
「涼み船」 三代目市川蔵 |
しかしやがて、これではいけないと気づくようになった私は、私同様役のつかない二十代の若い人たちと共に、「つくし会」という研究団体を作り、最初は脚本の朗読会から始めていった。嵐鯉昇(北上弥太郎)君と私とが幹事を持って、会計から企画からすべての役を引受けて奔走した。二、三カ月後、名古屋の御園座で関西歌舞伎の公演のあったとき、同座の専務長谷川氏の好意で、夜の部の興行のはねた九時半から一時間半を、特にわれわれ「つくし会」のために舞台を提供して貰って、はじめて公演を持つことが出来た。出し物は「修禅寺物語」だったが、衣装もつけず顔もつくらない、いわゆる舞台稽古の形で行ったもので、演技指導には現在私の養父である市川寿海が当った。
幸いにしてこの試演は芸どころの名古屋の人たちから好評を以って迎えられ、私たちが気をよくしたのは云うまでもない。そして頼家をやった私も、この役を当り芸としていた寿海から賞讃の言葉を貰って感激したものである。
そして一年後、大阪文楽座で一日だけだったが、本格的公演を行えるようになるまで成長した。私は、このときは「お国と五平」の友之丞を演じた。
こうして漸く演技者としての目覚めを体内に感じはじめて来た頃、突然私たちの前に武智鉄二という人が出現して来たのだった。
当時私はこの武智という人については、殆ど知らなかった。後になってから、能楽や文楽に関係のある演劇批評家と判ったが、それまでは、ただ若い人を集めて歌舞伎の再検討をされるということを薄々知っているくらいで、私たちの方でも、既に終戦後、他にさきがけて、関西歌舞伎として「つくし会」をやっていた関係上、積極的に近づく意志も持っていあなかったのである。ところが松竹から話があって、関西歌舞伎の若手の連中がこの武智先生の指導を仰ぐようになった。
後になって武智先生は、能狂言やオペラの演出までされるようになったが、演出という仕事をはじめられたのは実にこの歌舞伎が最初で、ここに於て後年武智歌舞伎と呼ばれる、エポック・メーキングな新しい歌舞伎が誕生したのである。
私たちは、武智先生のきびしい指導の下に、歌舞伎としては異例な一ヵ月という長期の稽古を積んだ後、第一回公演の蓋を開けた。この時は興行的には失敗だったが、世論に与えた影響は大きく、しばらくは賛否両論が渦を巻いて行われた。とまれ、この一ヶ月にわたる激しい稽古の間に私たちが得た体験は、大きく且つ尊かったことは否めない。かくて、二回、三回と公演を重ねるにつれて、私の演技者として本当の意味での自覚が紙をはぐように明らかにされて行った。
新しい壁は、又しても開けて行ったのである。
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