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(56年3月10日発行)

元禄忠臣蔵・徳川綱豊 近江源氏・佐々木盛綱

梶原平三誉石切・梶原平三景時

 名門の出身でないため数々の辛苦を重ねたが、遂に関西歌舞伎の座頭としての今日の地位を占めるに至った市川寿海という人は、梨園稀に見る好紳士である。かって先代左団次のもとにあって二枚目の役どころで、亡き先代松蔦とのコンビはあまりにも有名だった。その後ある事情のため東宝に奔り、活路を見出したが、これも永続きせず、再び松竹へ復帰し関西歌舞伎に移ったが、温厚な人柄は、円満な人柄は、延若、梅玉ら、亡きあとの、関西歌舞伎を守り、今は亡き寿三郎と双寿時代を築いたが、豊田屋の死と共に、押しも押されもせぬ地位につき関西歌舞伎俳優協会長に推された。

 一昨年芸術院賞を受け、次期の芸術院会員の呼声高い、まことにめぐまれた晩年だが、一昨年末から神経痛を患い、いまだ全快せないので、往年の若さと迫力に欠けるうらみがあるが、その持味はますます磨きがかかって来るようで、成田屋寿海の本領はさらに期待してよいと思う。

 関西歌舞伎というところはどうも問題の多い所である。一昨年九月以来数々のもめごとが続出し、会長としての寿海を焦々させたようだが、こうした場合には温厚人だけによし快刀乱麻を断つような解決法はのぞまれなくとも、将来の安定のため、このへんので協会の強化の手を打つべきではなかろうか。是非ともそうありたいと期待する。

 「頼朝の死」の将軍頼家、「元禄忠臣蔵」お浜御殿の徳川綱豊などはこの十八番に数えてよく、最近くり返し上演されるようだが寿海も亦好きな役どころだろう。今日までに立役、二枚目、女形というような役を演って来ているだけに決して無駄な努力はしていない。この豊満な経験を生かして、後進の養成に努め、関西の総帥としての面目を充分に発揮してもらいたい。(菱田雅夫)

 

直侍・片岡直次郎

番町皿屋敷・青山播磨

あかね染・半七

 
 

 

 
 市川九団次の子として、あまりパッとした存在でもなかった市川莚蔵が武智鉄二の実験的歌舞伎に引っぱり出され「妹背山道行」の求女を演じて、一躍認められて以来好調を続け、市川寿海の養嗣子に迎へられ雷蔵となってからますます光彩を放ち、鶴之助、扇雀とならんで、関西歌舞伎の若手三羽烏として、よき将来を嘱望されていたのだが、考えるところあって映画界に投じ、大映専属のスターとして銀幕の人気者となった。

 悧巧な彼だけに永久に舞台に起たぬことはあるまいから、機を見て舞台へ帰るだろうし、又その日こそ関西歌舞伎にとって一服の清涼剤になることであろう。養父寿海と同様温厚な人柄だが、その裡にひそむ烈々たる闘志は将来関西歌舞伎を背負ってくれることを物語っている。

(56年3月10日発行)