あの日あの頃
僕の野球狂時代

 

 そうこうするうちに、ぼくたちの野球も、どうにかグラウンドでやれるまでに成長した。いよいよチームを結成して、敵味方に分かれて試合をしようというところまで漕ぎつけたものの、悲しいかなぼくも錦之助君もお金がない。二人で相談の末、楽屋中を廻って、おやじや先輩から寄付を仰いだが、バットやグローブを少し買った程度で、とてもユニフォームまでは手が届かなかった。しかし、せっかくの試合をユニフォームなしでやるのは残念だというので、当時ノン・プロに加盟していた千土地チームのをそっくり借り受けることにした。ところが、これがしばらく使っていないので、臭いの、臭くないの、全くもって鼻持ちならない代物であった。そこで一晩でクリーニングに出し、翌朝まだアイロンの熱が残っているという、あつあつのユニフォームを着込んでグランドへ急いだものだった。この試合、ぼくはライトを守っていたと思うが、ほかに錦之助君や鶴之助君や市川謹也さんなどもいたように思う。余談ながら勝負はたしか錦之助君のチームが勝ったのではなかったか。

 靴もユニフォームもすべて借りもので、まるで一世紀も前のような気がするが、実は数年前のはなしなのである。いま錦之助君もぼくもプロ野球なみのチームを持つことができ、まさに隔世の感があるが、ぼくたちの野球熱はこうして出発したのだった。ぼくがこんど野球チームを作ってみたいと思った動機のなかには、かって、こうして一緒に遊んだ錦之助君のチームとぜひ対抗試合がしてみたいという気持ちもあったからである。そのほか、ともすれば不健康に流れ勝ちなぼくたちの生活を、チームを持つことにより、スポーツを通して少しでも健康的に保つことができるのではないかと考えてみた。

 さらに錦之助君もぼくもいつの間にかスターと呼ばれるような人間になってしまったが、そうなれば、今までずけずけと注意を与えてくれた周囲の人達も何となく遠慮し勝ちである。だからこんどのチームも、撮影所の各部門から若い人たちに集まってもらい、友達として、スポーツを通じてこれらの人たちと語り合うチャンスが持てれば幸だと思っている。さらに対外的には親睦、親善のために、いわば“民間外交”の役割を果せるのではないかとも考えてみたり、ぼくの野球チームによせる期待はすこぶる大きいのである。

森一生監督と