大映京都宣伝課長  高森富夫

 後援会の皆さんには既に御観覧願った事と思います『二十九人の喧嘩状』は、当初『吉良の仁吉はよい男』という題名でしたが、その原題の通り、仁吉を演じた市川雷蔵君は正によい男といえば、彼の統べてを一言にして表現したものといえましょう。若さに似ずしっかり者の仁吉は実に雷蔵君そのままの姿であるのです。

 弱冠二十六才の青年太田吉哉氏(皆さんは先刻御存じ、雷蔵君の本名)は俳優という職業を別として、彼ほどの男性は今時の若い人達にも中々見当らないといっても過言ではないでしょう。 − それは人間としての立派さなのです。

 歌舞伎の世界で生れ育った彼なのですが、そういう特殊な世界の人間の肌を感じさせない現代青年の近代性と知性と感覚を持っているのです。その上、尚且つ、そういう世界の良さのみを肯定し、それを身につけている利溌さ −。そして又、一面、年ににずいろいろの人生を経て来た人の様な苦労人を感じせしめる人当り −。一方、御曹司の人の好さ、明るさを発揮する、陽気な性質 −。所謂“売出しの若手人気俳優”にありがちな軽佻浮薄さは微塵もなく、むしろ堅実すぎる程の生活態度 −。

 もし、彼をして学生服、或いは背広を着せ街の喫茶店で語らせしめれば、何人も決して雷蔵と悟る事はないでしょう −。それ程、彼は役者らしくない役者 −、世間の常識も人生の表裏も心得た至極、堅実円満な社会人 − それが市川雷蔵君の素顔なのです。

 俳優としての“市川雷蔵”は無論これからで、その行く手は遼遠であり、又、その批判は一作毎に、皆さんが夫々される事でしょうし、大成、成否のすべては偏に懸かって、本人の努力と皆さん方の後援にあるという事は言を俟ちません。

 現在までの“市川雷蔵”のみを以って、俳優市川雷蔵を語る事は未だ早計だと思います。併し、この人間雷蔵は永遠のものであり、現在のまま大きく育ち磨かれてゆく事は間違いないのですし、そういう意味では人間雷蔵を前述の如く、ほめてもゆき過ぎではないでしょう。

 この人間雷蔵が基盤である以上、俳優雷蔵君の前途は最早固く約束されているものと私は信じております。俳優とはやはりその人格の反映、あらわれであるからです。雷蔵君を仁吉にたとえましたが、その最後は全く違う筈です。賢明な彼の事ですから、一介の義理人情にほだされ、あたら若い有望な命を他国で捨てた仁吉などの轍を踏むような事は絶対にないでしょう。

 大映という自分の生れた土地で益々大きく、日本一の演技者となられる事は我々の大いなる夢であり、その実現の日まで皆さんと共に、雷蔵君の一助になり得たいものと心から念願しておる次第です。