夜ざくらを賞でる

桜の季節になりました。いつ見ても桜の花は美しい。この花がちらほらと咲き出すと、ああ、春がやって来たなあ・・・・という感慨にうたれるものです。

京都の冬は寒いのです。三月になっても、あっち、こっちに雪が残っています。その雪が溶け出さないか・・・・というときに、さくらは、いつの間にか莟を持って、それが次第に大きくなっている。そしてやわらかな陽差しが京都の町を暖い雰囲気に包み出すと、さくらがパッと咲き出すのです。

さくらと日本人は切っても切れないエンがあります。花は桜木、人は武士・・・・なんて言葉もあるほどですから、いかに日本人がさくらを愛したかが分ろうというものでしょう。

京都は古い都であり、人々はむかしから今日に至るまで、さくに浮かれ、さくらに酔い、春を謳歌して来ました。花を賞でる・・・・ということは非常に風流なことです。

ところが、最近の人々は、花を賞でながら酒を飲むというのではなく、花をたんなる酒のサカナにしているのではないでしょうか?私にはどうもそうとしか考えられないのです。花を賞でるのなら、おとなしく眺めていればよい、と私は思うのです。

さくらの美しさを賞でながら、和歌を詠んだり、俳句をひねったりすればよいと思うのです。そういう風流なことが出来ない人は、さくらを眺めながら春の陽を浴びて、俗塵をきれいさっぱりと洗い流すがよいと思うのです。

一家そろってたのしいピクニックをするのもいいでしょう。ああ。それなのに!人々は花に浮かれるのではなく酒に浮かれているのです。

京都には古い名所がたくさんあるし、公園もあります。ところが、それらの場所は、春ともなると落花ローゼキ、大トラ子トラがごろごろところがっている有様。桜の枝を折ったり、そこいら中にヘドを吐いたり、喧嘩をしたりしているのですからたまらない。

風流の風の字も解さず、美しいさくらの花も見ようともせず、ただガブガブ酒を飲んでいるのだからかなわない。オヤジさんは酔っ払って、子供が迷子になっているのも知らない、なんていう風景もみられる。

私の家は鳴滝というところにあります。すぐ裏が音戸山という山になっています。その山にもさくらが咲いていますが、家の敷地にも数十本のさくらが咲いています。しかし、私は昼間、ゆっくりさくらを眺めている暇がありません。日中はほとんどスタジオにつめてしまうので、撮影所に向う車の中で、あっちこっちの桜を眺めるだけです。そして、家の桜を眺めるのは、夜だけ、ということになります。

夜ざくらの味もまた格別です。一人静に盃をあげながら、夜風に散るさくらを眺めていると、しみじみとした気分になって来るのです。こういう静かな境地を私は愛しています。

公園の大トラ、子トラたちにも、このような気分を味合わせてやりたい・・・・なんて殊勝なことも考えているんですが。

『ぼんち』『大江山酒天童子』さらに東京撮影所の衣笠貞之助監督の『歌行燈』と、仕事はぎっしりつまっています。そのような忙中にも、閑があるわけで、もっぱら夜ざくらを賞でるのが、私の目下のたのしみになっているのです。