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雷蔵好み
村松友視
定価:600円(税込)  ISBN:4-08-746061-4 解説:藤井浩明

 

 

プロローグ いまなぜ雷蔵なのか

 いま、なぜ雷蔵なのか……この原稿を書き終り本を出したあと、すぐに問いかけられるであろう常套句が、書き始めている私の頭の中で、すでに堂々めぐりをしている。しかしこの言葉、常套句とはいえ侮れぬしたたかさがあって、意外に答えに窮するのだ。
 第一、私の側からも、いまなぜ雷蔵なのか……とたずねたくなるような現象が、すでにいくつか生じているのである。そのひとつは、深夜の映画番組における“雷蔵もの”の頻発という傾向だ。ふと気がつくと、市川雷蔵主演作品のタイトルが番組表の中にあり、私自身、つい見てしまうケースも多かった。これは“眠狂四郎シリーズ”にかぎることではなく、「炎上」「ぼんち」“陸軍中野学校シリーズ”“若親分シリーズ”“忍びの者シリーズ”、あるいは「大殺陣雄呂血」のようなコアな興味に対応するものから初期の作品にいたるまでの、おびただしい数なのだ。
 もちろん、これらがすべて連続して上映されるわけでもなかったが、雷蔵映画シリーズの放映もあった。この一年(二〇〇二年)という区切り方をしても、かなりの数になるだろう。それらを見ていると、まず作品の多彩さにおどろかされる。そして次に、雷蔵がそこで演じている人間像の色合いの多さにも、あらためて気づかされるのだ。勝新太郎のように、いかにも“勝新”らしいキャラクターを、すべての作品に投影するケースは多いが、雷蔵のように役によって異なった個性を次々出してゆく俳優は、今日ではあまり見当らなくなった。
 先日ある席で、小林稔侍はTVドラマでもCFでも映画でも、つねに小林稔侍でしかあり得ないという説を聞き、なるほどと唸った。そしてこれこそが現代の俳優の特徴的現象ではなかろうかと思った。
 いま、テレビで演じられている役は、俳優がその役の中に入り込むというよりも、その俳優に向けて役がつくられていることが多いのではなかろうか。そうでないとしても、俳優がひとつの色しかこなせないケースが多く、田村正和は何を演っても田村正和、キムタクは何を演ってもキムタク……という金太郎飴現象が生じることになる。しかし、高倉健や石原裕次郎だって、何を演っても“ケンさん”と“裕ちゃん”だったではないか。私の頭に、そんな反問が生じた。
 たしかに、“ケンさん”や“裕ちゃん”でなくても、かつての映画スターにもそういう感じがあった。長谷川一夫は何を演っても長谷川一夫、片岡千恵蔵は千恵蔵、市川右太衛門は右太衛門、三船敏郎は三船敏郎だった。ところが、“ケンさん”や“裕ちゃん”と小林稔侍とのあいだには、いささかというよりかなりの誤差があるような気がする。しかし、その理由はあざやかに浮かぶのではなく、何となくそういう気がするという感じなのだ。
 映画スターには、客足を呼ぶうえでそういうニーズがあったのか、とも思ったが女優を考慮に入れるとこれにも首をかしげてしまう。女優は、作品によって意外にいくつものキャラクターを演じているのだ。黒澤明作品「白痴」における原節子と、小津安二郎作品における原節子とは、別人のごとき個性であり演技であり表情だ。のちに名脇役となった女優でも、無声映画の頃にはあざとい毒婦役が似合う女優だったという例もある。
 もっとも、時代劇はもっぱら男優が主演で、女優はその作品ごとに都合よくあしらわれていたのかもしれない。それにしても、東映や大映の時代劇のときの山田五十鈴と、「蜘蛛巣城」や「用心棒」における山田五十鈴とは、やはり別人の貌であり、松竹の「君の名は」で野性的な娘を演じた北原三枝と、日活の“裕ちゃん映画”における彼女もまた別人の趣きだ。
 こうやって考えてゆくと、映画男優スターは同じキャラクターの中におさまっていたが、女優スターはさまざまに役を演じ分けていたという感じだ。“お姫さま女優”も、いつか“脱皮”して鳥追い女などを演じることになるのであり、男優スターよりも女優スターの方が役者らしい展開を示す例が多かったのではないかと思えたりもしてくる。