大菩薩峠
 

 1913年9月12日、花柳界の話題や芸能ネタなどのエンターテインメント路線で庶民に人気のあった都新聞で、新連載がスタートする。

 です、ます調で大菩薩峠近郊の風土や歴史を語る穏やかな展開は、すぐに美剣士の机龍之助が、峠の頂上で休んでいた老巡礼を理由もなく惨殺する血なまぐさい場面へと転ずる。これが発表紙を変えながら1941年まで書き継がれ、中里介山の死で中絶した「大菩薩峠」の始まりである。

 老巡礼を斬った龍之助は、御嶽山の奉納試合に参加するが、その前に対戦相手・宇津木文之丞の妻お浜を陵辱。試合で文之丞を殺した龍之助は、お浜を連れて江戸へ出奔、やがて自分の子を生んだお浜さえも斬って京へ上る。動乱の幕末、龍之助は佐幕派の新選組、勤王討幕派の天誅組など異なる政治信条を持つ組織の間を転々としながら、人殺しを重ねるが、火薬の爆発で失明してしまう。

 幕府や天皇に忠誠を誓う仲間を嘲笑い、人間の命は尊い、規律を守るのは正しいなどの常識を黙殺するかのように、「人を斬るより他に楽しみもない」と嘯く龍之助は、屈折したニヒリストとして描かれている。

 介山が殺人を何とも思わない虚無的な剣客を作り出したのは、大逆事件の影響といわれている。

 1910年、無政府主義者が天皇の暗殺を計画したとして逮捕され、幸徳秋水ら十二名が証拠もない裁判で死刑を宣告された大逆事件では、国家が強権を発動すれば、個人の権利など簡単に奪われる暗い現実を見せつけた。国への信頼が揺らぎ、社会全体が閉塞感に覆われていた時代に登場したのが、机龍之助だった。血に飢えた剣客に読者が熱狂したのは、社会への不満があっても口に出せない庶民が、あらゆる価値観を破壊する龍之助の剣に、自分たちの夢を託したからなのである。

 失明した龍之助は次第に登場の機会が減り、その代わりに、顔の半分に火傷の痕があるお銀様と、旗本の駒井甚三郎がそれぞれにユートピアの建設を目指して奮闘する物語へシフトしていく。ここからも理想の国家とは何かを追求した、介山の思索の過程が見て取れるのではないだろうか。

 『大菩薩峠』は、最初に芸者のお姐さんや下町の職人や商人が熱狂し、それが知識階級に伝わることでロングセラーとなった。平凡な市民が作品の価値を発見した意味で、『大菩薩峠』は大衆文学の先駆とされてきたが、介山は自作を、あらゆる人々を悟りに導く「大乗小説」であると語り、大衆文学に分類されるのを嫌っていたという。

 だが机龍之助がいなければ、その虚無的なキャラクターで一世を風靡した丹下左膳や眠狂四郎、木枯し紋次郎も誕生していなかっただろう。介山は嫌がるがだろうが、『大菩薩峠』は後の大衆文学に計り知れない影響を与えているのである。(末國善己 日本経済新聞08/31/07)

 

 

 

 

 

 

特別展 『大菩薩峠』映画・演劇について 於:羽村町郷土博物館 10/11/87〜11/29/87

 小説『大菩薩峠』は、ご存知のように中里介山によって大正2年(1913)都新聞に連載され始め、昭和19年(1944)に介山が逝去するまで約30年間書きつづられ、しかも、未完の世界中でも有数の長編小説です。『大菩薩峠』が、都新聞に筆がすすめられていくと、劇化したらどうかということが好事家の間で広まりました。

 その頃は、澤田正二郎が大正6年(1917)新国劇を創立し、第1回の公演を新富座で興行したが失敗し、関西に撤退をよぎなくされていた時期で、澤田正二郎は再度東上の機会をねらっていた時でした。澤田はその旗揚げに当時人気を博していた『大菩薩峠』上演を懇願していたのです。介山自身も停滞していた東京劇壇に風雲を捲き起させるため、澤田に上演を約しました。それ以来『大菩薩峠』は、新国劇の看板狂言になったのです。

 一方、『大菩薩峠』はこれまでに5回映画化されています。最初は、昭和10年(1935)の日活作品で、監督稲垣浩、机龍之助には大河内伝次郎が扮しています。

 映画化にしても、演劇化にしても中里介山は、常に自分自身の理想を高く掲げ、その主張に合わない場合上映や公演を中止させていました。澤田正二郎にも、日活に対しても同様でした。介山の自作が劇化・映画化されることによって、原作の改竄を余儀なくされることへの制裁であったことがいえます。小説を芝居にしたり、映画にしたりすることは本来間違っているという考え方を貫き通したといえます。また、そこに中里介山の妥協を許さない性格をみることができます。

 今回の展示では、上演されたり、映画化された時のプログラム、スチール写真、ポスターなどの資料を一堂に集めて、当時の人々からどれだけ評判を得たか、またあわせて中里介山の映画や演劇に対する考え方を探ってみました。末筆になりましたが、特別展開催にあたり、ご協力いただいきましたか各位に深く感謝申し上げます。

昭和62年10月  羽村町郷土博物館

 

  例の黒い烏の屏風が、この作品(「大菩薩峠」)ではじめて登場しますね。これは内藤昭のサインみたいで(笑)、その後も何回か使われる。

内藤 これは実際にこういう屏風があるんです。ほんとに烏を描いた屏風がある。京都は古本屋が多いんで見に行きますと、屏風の市なんかの時に出版される写真図録があって、そのカタログを売ってるんです。それを買い求めたらその中にこれがあって、描いてもらったわけです。

  『橋のない川』でも屏風が芝居をしたけど、ここでは、白地に黒の烏の屏風。

内藤 死の象徴。

  美術がすごく主張しているという画面ですね。これが美術やぜえというように見える。

内藤 そういう押しつけはものすごくあったわけ、昔から。これは研究者に言われて知ったんだけど、この烏の絵は三回使ってるって、三隅さんの映画で(笑)。(「映画美術の情念」内藤昭/聞き手・東陽一 リトルモア)

Crows (detail) / Seattle Art Museum

(Edo period, c.1650 Pair of six-panel screens, ink & gold on paper)

みわ談:シアトル美術館発行の「A Thousand Cranes/Treasures of Japanese Art」に烏の屏風を見つけた時は、これだ!!と思った。解説にはThe unloved crow is an unlikely choice of subjectとあり、烏というモチーフは洋の東西を問わずあまり好まれず、不吉なそして死の象徴とするというのも肯ける。

 原作者中里介山は「大菩薩峠は机龍之助が主人公ではない」というが、理由なき殺人者として登場し、音無しの構えの凄絶な剣を揮うこの虚無の剣士なしには小説も映画も成立しない。新国劇の沢田正二郎がはじめて舞台で演じ龍之助のイメージが植えつけられた。沢正は俗にいう三白眼で妖気を漂わせ、“沢田龍之助”とさえいわれた。しかし原作にない龍之助の立廻りをやったので、介山居士が怒って上演を拒否したといういきさつがある。

 「大菩薩峠」は介山がなかなか許可しないため映画化できなかった。昭和3(1928)年に介山と伊藤大輔監督が手を握って大嶺社というプロダクションができたが、陽の目を見ず、結局10年にようやく大河内伝次郎主演作品が生れた、この時の原作料5万円。今なら1億円にもなろうか。大河内はもちろん適役で、日活は10万円もの宣伝費を使い、社運を賭けて製作。大ヒットとなった。しかし第2部までしか作られなかったのは、介山の干渉が原因といわれる。

 戦後片岡千恵蔵が3部作ずつ2度やった。重苦しいくらいの力演だが太り過ぎ。一年一作ずつ撮った内田吐夢監督作品が評価されているが、その前の渡辺邦男監督もソツなくまとめていた。龍之助が霧の中に消えてゆくラストシーンは最もすぐれている。このあと市川雷蔵が3部作を撮って眠狂四郎の基礎を作った。仲代達矢は意外にも単なる殺人鬼にしか見えなかった。( 別冊太陽 93Autumn 時代小説のヒーロー100 永田哲朗 )

 凄さまじい響きで落下する七代の滝、白い着物姿と弧を描く白刃、そして、大菩薩峠のタイトル。甲州の山なみ見立てた乗鞍の山々が俯瞰され、青嵐の峠道を巡礼の親娘が歩いてくる。監督・三隅研司、机竜之助・市川雷蔵。大映渇f画京都撮影所製作の『大菩薩峠』ファーストシーンだ。続いて、峠の頂きに深編笠の影がさし、水を汲みに降りた娘を待つ老巡礼の後ろから“おやじ”の声。風が吹き荒れている。“あちらをむけ”声とともに巡礼に斬りつけた深編笠の武士は、黒の着流し、紋は放れ駒。血刀を拭った懐紙が谷底に舞い散って、小枝にひっかかった鈴がチリンと鳴る。猿が走る。ひょうびょうと風の音が聞こえる。ところでこの映画だが、猿がたわむれいる山の中、林道、幹だけの太い根っこの森、落ち葉までも、峠のすべてはつくりものだという。しかし、実際の大菩薩山嶺よりずっと竜之助も世界に近い風景だ。そこで、あまりにもすごいセットの自然に誘われて“映画では一度もロケしたりことのない”という大菩薩峠の麓まで出かけることにした。 

 まず『大菩薩峠』原作者中里介山の出生地であり、晩年を過ごした西多摩、羽村市禅林寺の墓に敬意を表することにする。ここら一帯は武蔵国青梅の里、江戸時代は甲府と新宿との中継地で、甲州裏街道の道筋として栄えた土地だ。また、新宿から青梅を過ぎて十六里、沢井村は竜之助の出身地になる。信仰の霊場御岳山の麓にあたり、立川からJR青梅線で四十五分。都民のハイキングコースとして親しまれている梅の名所だ。吉川英治記念館や玉堂美術館、館内には珍しい日本酒の蔵元もある。多摩川の渓流が美しい健康的な土地は、竜之助のイメージとはほど遠い。お浜との悪縁の発端水車小屋は、もちろん撮影所のセットだが、大菩薩峠への上り道、万世橋のそばというわけだ。竜之助と宇津木文之丞との奉納試合の場になる御嶽神社は、現在ケーブルカーでゆける。階段を登りつめた御岳山の頂上にある。ただし、映画は京都上鴨神社を使って撮影されたという。

 大菩薩峠は多摩川と笛吹川の分岐点に当たる。昔は上り道を上求菩提、下りは下化衆生と呼んだ街道一の難所だったというが、今は新宿から日帰りエリア。富士山、南アルプスを望む魅力的な登山コースになっている。しかし、上級ハイカー向きだから、竜之助気分を味わうには相当な覚悟が必要。それにしても、素足に下駄ばき着流しスタイルではとても歩けない…。原生林の森はうっそうと茂り、稜線にそった大菩薩峠までの道は、樹間から奥秩父連峰が見え隠れして、峠の展望は素晴らしいということだ。何しろ、甲州、奥多摩、奥秩父につながる名うての山岳地帯。ロケ隊も敬遠したくらいの難儀道だから、イージーに峠を見あげ、険しい山にさようなら。日帰り旅にピリオドを打った。 

 なお、この『大菩薩峠』の中に“しおの山、さしでの磯にすむ千鳥、君が御代をば八千代とぞ鳴く”という尺八が聞こえ、竜之助の気持ちが久しぶりに落ち着く場面がある。“しおの山”山梨県塩山市。中央線で都心から近く、大菩薩峠への甲府側からの上り口になる。“あしでの磯”はお浜の故郷八幡村を流れる笛吹川の岸の地名。甲州路から八幡村、大菩薩峠を越えると竜之助の故郷沢井村だ。完結編のラストシーンは輪廻の糸にあやつられた竜之助が、伊勢古市、東海道から甲府と転々、わが子郁太郎の名を呼びながら笛吹川を濁流に流されてゆく、笛吹川の名に惹かれて、信濃路から流れにそって走ったことがあるが、林檎の里を流れる川は穏やかだった。 

 そこで、陽光燦々。時どき野猿の姿は見られるが、モノクロトーンの映画的色彩とほど遠い風景は、暗いムードの着ながしルックに似合いそうもない…。しかし、映画は上下八里のこの峠を中心に展開されるから、ロケ地ではなくても、ストーリーの地理的関係を把握するために、雷蔵『大菩薩峠』ファンとしては一度は尋ねたい場所だ。

 映画は三部作だが、机竜之助の行動範囲は当時としてはかなり広い。『大菩薩峠』『大菩薩峠・竜神の巻』二巻でも、西多摩地方をふり出しに、青梅街道から江戸を経て、鈴鹿、京都島原、大和八木、三輪、竜神まで足跡を残している。だから、一回で旅しようなんてとても無理だ。そこで、“そうだ京都へ行こう”ということになった。

 今回は島原。重要文化財“角屋”へ行こうというわけだ。第一部のクライマックス“御簾切り”の間のモデルルームということだが、映画の竜之助が幻影におびえたのは、御簾の絵の襖に囲まれた、緑がかかった墨色の陰気な部屋だ。風が吹いて、鈴の音。御簾の絵がいつの間にかほんものに変わって、四方からも鈴の音。三間つづきの奥の部屋という御簾の間は、色彩だけを変え、そのままセットに写したということだ。まるで、竜之助の深層心理を浮き彫りにしたようなトーンだった。しかし、抜き身をさげた竜之助の姿はスクリーンの中だけのこと。ま昼の角屋はあふれる見学客で盛況だった。“ウソがまことのつくり物”の迫真力に魅せられ、またも来てしまった角屋だったが、錯乱した竜之助の心象風景とは遠い。しかし、時代が偲ばれる建築は遊女屋の歴史を伝えてそれなりにおもしろかった。

 京都まで来たなら、近江八幡市に近い石塔寺だ。映画では、大菩薩峠に安置するお地蔵様を和尚が彫っている場所というわけ。竜之助の故郷沢井村の寺だが、まるで、物語の渦中にいるような風景だ。石段がしんどいと云いながら三度も訪ねた。石仏に両側をはさまれた高い段々道を上ると、日本最古で最大という石造の三重の塔が『竜神の巻』そのままに現れる。杉木立に囲まれた境内には八万四千の石仏石塔、しんとした境内に立つと、無明の闇にもがく竜之助の悲鳴が聞こえてくるようだ。“こんなかわいい子を一人ぼっちにして…”、彫る手を休めた和尚と郁太郎を背負った与八の会話が聞こえる。映画では、青空に大きな石塔がクローズアップされて、地蔵和讃の歌声が流れていた。

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 そこで、ここまで辿ったのだもの。『大菩薩峠』次の旅路は絶対竜神だ。紀州白浜から車で竜神温泉を目指した。途中、天誅組が閉じ込められた小屋も残っていて、藤堂藩の追っ手に爆破された小屋から逃れた竜之助がたどりついた土地というのもうなずけた。昔は秘湯であったという日高川上流の鄙びた温泉は、深い木立に囲まれ、南高梅が特産というだけに梅林が多いのも、青梅の里に似ている。桜が咲く季節に雪がちらついて、龍神村の春は名のみ。さぞ、故郷が恋しかったろうと竜之助が哀れだ。今夜は創業百年以上を誇る老舗旅館に泊まる。まるで映画の旅篭“室町屋”のような佇まいだ。温泉に浸って、炬燵に温もっていると、お内儀のお豊があいさつに現れそうな気分になってくる。山菜類や椎茸、蒟蒻など山の味を箱御膳で供され、日本酒の盃を傾けていると、争う人のざわめき、半鐘の音やほら貝が響いて・・・、盲目の竜之助が“初めから心は闇だった”とつぶやく声、そんな錯覚も起る。『大菩薩峠』の闇にどっぷり漬かった夜だった。

 お豊の夫金蔵が嫉妬に狂ったはずみに、ひっくり返った油壷が割れて、室町屋は火の海になる。そこで、不気味に夕空を掃いた清姫の帯雲、夜空に燃え続ける森。竜神村は山で業火に包まれ、燃えさかるわけだが、この火事シーンは鞍馬に作ったセットだということだ。また、ちょっと山を入った場所に竜神の滝は実在したが小ぶりで絵にならない。映画は那智の滝。修験者やお豊が水垢離をとる滝壷はセットだという。時代劇はファンタジーと云った市川雷蔵だが、画面を追いかけ、竜之助を追いかけ、まだまだ廻った土地々々。大菩薩峠の旅はファンタスティックだった。

 こんな旅行を以前は月に一度か二度、ロケ地見学をかねて楽しんだものだった。ところが、ここ数年、地方の人に“市川雷蔵の映画を見てもらう”旅になった。つまり、“映画の中の・・・”ではなく“映画をひっさげて”という旅になってしまった。今年になってからも、福岡、北九州、山形と雷蔵映画のPRの目的で旅をした。土地ごとに出会う忘れがたい人情と風景だが、嬉しいのは、“こんないい映画をみられるなんて”“こんな映画なら何度でもやってください”と、名残を惜しむ人たちとのふれあい。フィルムとともに旅する風景だが、“たかが映画、されど映画”をしみじみ実感させられる。映画から生まれたご縁を喜びながら確かめる土地のあれこれ。気軽な一人旅もいいが、仲良く楽しむ“映画ひっさげ旅”も味わい深い旅である。( 映画研究誌「FB」1999秋季号 石川よし子)

 無明界をさ迷う盲目の剣鬼、或いは時代の修羅を背負った苦悩の具現者 − 中里介山が『大菩薩峠』(大正七〜昭和十六)に登場させた甲賀一刀流は音無しの構えの使い手、机龍之助を、一体どう表現したらよいのだろうか。

 物語は机龍之助がいきなり、大菩薩峠の頂で故なくして老巡礼を斬り殺すところからはじまり、その夜、彼は御嶽山の奉納試合で勝ちを譲って欲しいと頼みに来た対戦相手宇津木文之丞の妻お浜を陵辱。当の試合においては文之丞を一撃のもとに死に到らしめお浜と共に江戸へ出奔、文之丞の弟兵馬に敵と狙われることになる。江戸で新徴組に加わり、清川八郎暗殺を計画するが、誤って島田虎之助を襲い、虎之助の「剣は心なり、心正からざれば剣も正しからず。剣を学ばん者は心を学べ」という言葉に胸を打たれるが、それも一瞬。一子郁太郎まで儲けたお浜を斬り、動乱の幕末図絵の中、新撰組や天誅組に身を置き、大和十津川で火薬の爆発により失明。その虚無的な貌をいっそう深めていく。

 この「歌いたい者は、勝手に歌い、死ぬものは勝手に死ね」とも「人を殺すより他に楽しみもない、生甲斐もない」ともうそぶく龍之助のニヒリズムは一体どこから生れたのだろうか。作者の中里介山(明治十八〜昭和十九)は、自由民権の気風の強い三多摩に生れ、キリスト教的社会主義を経て、幸徳秋水や堺利彦と接近、日露戦争では反戦詩人として活躍したことで知られている。この後、介山は、宗教的傾向を深め、仏教の研究を通して独自の宗教観、人間観に至るという思想的軌跡を示すが、『大菩薩峠』執筆に最も強い影響を与えたといわれているのが、明治四十四(1911)年一月、幸徳秋水ら十二名の社会主義者を暗黒裁判の果てに死刑とした大逆事件である。

 机龍之助の人物造型は、大逆事件の波をくぐり抜けて来た介山の思想的屈折と抜きさしならぬ関係を持っており、龍之助のいう「 − 疫病神が出て采配一つふれば、五十万人の要らない命が直ぐそこに集まるではないか、これから拙者が一日に一人ずつ斬ってみたからとて知れたものじゃ」という台詞等は、介山が龍之助の理由なき殺人という不条理によって、神も仏もない世の中=近代の暗黒に牙をむいたといった意味合いが強いのではあるまいか。

 この人を斬りつつも、斬った相手の業を背負いこみ、自らをより深い苦悩の淵に立たせるニヒリストを登場させた『大菩薩峠』は、はじめ花柳界の婦女子を主たる読者とする「都新聞」に連載されたため、中央の文学的評価からはずれたところに位置していた。が、昭和二年、春秋社から廉価版が刊行されるや、第一次世界大戦後の経済的不安や社会の動揺によって生じた知識人の物心両面にわたる恐慌が虚無的なレベルまで深刻化したことによって、たちまち部数を伸ばし、机龍之助は時代のヒーローの座に踊り出たのである。

 大衆文学評論の先達中谷博が、机龍之助の剣を、時代の閉塞的状況を打ち破ろうとする意味において、ドストエフスキーの『罪と罰』におけるラスコーリニコフの斧にたとえたのも、故ないことではないのである。

 介山は『大菩薩峠』の創作意図を「人間界の諸相を曲尽して、大乗遊戯の境に参入するカルマ曼陀羅の面影を大凡下の筆にうつし見んとするなり」と記しているが、大乗とはあらゆる衆生を載せて悟り導くこと、カルマ=業とは身、口、意が行う善悪の行為のこと、従って『大菩薩峠』とは、そうした様々な業を持った人間を救済に導く小説ということになる。だが、何という哀しい救済の構図であろうか。

 机龍之助の存在は、欧米の大衆小説の主人公が多く社会秩序の維持のために活躍するのに対し、わが国のヒーローたちが、その原点において、秩序の破戒者として登場したことを意味しており、このニヒリストの系譜は、堀田隼人や丹下左膳を経て、戦後の眠狂四郎にまで受け継がれていくのである。( 別冊太陽 93Autumn 時代小説のヒーロー100 縄田一男 )

 

音無しの構えから繰り出す虚無の剣

●中里介山
●大菩薩峠/1913年
●大菩薩峠/日活/1935年、大菩薩峠/1961年/KRTV
●幕末
●甲源一刀流
●道場の若先生でありながら我執を抑えられず流浪、剣鬼となる
●作家の死とともに永遠に未完。おそらくそのまま放浪中

 およそ剣豪物を愛好するほどの読者なら、原著は読まなくても“甲源一刀流・音無しの構え”という言葉だけはご存じなほど有名だ。−では、その現場の、息づまる間髪の呼吸までお伝えする余裕のない抄記(ぬきがき)で作者には申し訳ないが、まず、この壮大な巨篇の発端となる武州(関東平野の一部・武蔵の国)御岳神社奉納試合に臨席して観戦していただこう。

 試合う両者はもと同門から出て別の一派を開こうとする机竜之助と同流を守ろうとする宇津木文之丞。一種の遺恨試合の過激な気配漂う当日随一の大勝負。

 〔(略)竜之助は例の一流、青眼音無しの構えです。(略)その面は白く沈み切っているから、心の中の動静は更にわからず、呼吸の具合は平常の通り(略)この構えをとられると、文之丞はいやでも相青眼。(略)こうして相青眼をとっているうちに出れば、必ず打たれます。向うは決して出て来ない。向うを引き出すにはこっちで業をしなければならんのだから、音無しの構えに久しく立つ者は焦れてきます。(略)竜之助の色が蒼白さを増します。両の小鬢のあたりは汗がボトボト落ちます。(略)今まで静かであった文之丞の木刀の先が鶺鴒の尾のように動き出してきました。(略)この濛々たと立ち騰った殺気というものを消せるわけのもではない。(略)/「突き!」/文之丞から出た諸手突きは実に大胆にして猛烈を極めたものでした。〕 − が〔意外にも文之丞の身はクルクルと廻って投げられたように甲源一刀流の席に飛び込んで(略)突っ伏してしまいました。/机竜之助は木刀を提げたまま広場の真中に突っ立っていました。〕

 ・・・というのが八十二年前(大正二年)、当時花柳界に人気のあった「都新聞」に現われ、徐々に国民的大作となった「大菩薩峠」の、以下満天下にその流名を、なにか都合の悪いときなぞ、もってこいの冗談(シャレ)に用いられるほど、有名にした“甲源一刀流”はオトナシの構えの戯語(ジョーク)にあらぬ神髄だ。かくて竜之助は文之丞の内縁の妻お浜と出奔。これから風雲ただならぬ幕末動乱の世に、「歌う者は勝手に歌え、死ぬ者は勝手に死ね」という無明虚無の剣を揮ってさまよい出す。

 キリスト教から仏教まで道を求めた作者中里介山が、折からの国内は貧しく、国は軍国化が強まる暗い世相に対して鬱屈する心情の一部を彼に託し、傍若無人に生きさせたといえなくもない。ただし、介山自身は竜之助は主人公でもないし、剣戟小説扱いを嫌悪。大乗(ひとをすくう)小説とみずから称した。(石井富士弥)

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(新人物往来社 歴史読本スペシャル50 剣の達人より)

 

 

   

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