原作のシナリオ化ということ

 剣戟映画ブームがくると予想していたが、やはり予想通りだった。一方で剣豪小説ぶーむがあり、五味康祐や中山義秀の書く剣豪小説がベストセラーになっている。映画化の食指が動くのは無理からぬところだ。五味康祐のものは私も愛読していて、これは立川文庫の現代版だと思った。

 この作者は<太刀は普通一貫目近くある。そういうものを振り回して、いのちをかけてたった一人の相手を倒すために、惨憺たる苦心をする武芸者達の、何か哀れな、どうしようもない野望や興奮や運命を中心にこの短編集を組んでみました。背番号のある一刀斎などは、現代に生きているだけに、だから幸福といえるでしょう>と新潮社版「柳生連也斎」に自注している。これが映画になって『秘伝月影抄』になり、文中の一刀斎とある『一刀斎は背番号6』も同じ大映で映画化が決っている。 

 この五味の注釈は至極もっともらしいが、しかし、これは要するに立川文庫の世界に対して近代的、合理的解釈の柄をすげたにすぎないといえよう。立川文庫の傑作は「寛永御前試合」であると私は信じているが、あの御前試合に登場する武芸者達は、<普通一貫目以上もある>太刀を重しとしないで振り回すし、“何か哀れな、どうしようもない野望や興奮”というごとき暗い影をみじんももたない。明朗闊達で、愉快な人物揃いである。その明朗さ、闊達さ、愉快さを馬鹿げている、アホらしいと感じるところに、実は現代人の“何か哀れな、どうしようもない”理屈っぽさがあるのだ。

 東映の時代劇なんか、ある意味で、勇敢に立川文庫の世界をそのまま映画の世界にひきうつしている。へ理屈の解釈を一切映画の中に持ち出さないで、それで結構興行的にも成功をおさめた。しかし、そういう種類の時代劇に満足しない観客層もあることも事実である。今日の剣豪小説がベストセラーになる程読まれる理由もそこにある。また、映画化される根拠もある。

 つまり従来の時代劇映画のワクをはみ出す仕事としての意義があるわけだ。私が『秘伝月影抄』に期待したのもその点だった。

←クリック!拡大版へ